「はぁ〜」
太宰治、とても優秀な音楽大学2年生。絶賛悩み中。
昼時を過ぎた食堂の片隅で、太宰は机に突っ伏していた。4月の優しい日差しが差し込むこの食堂に人は少ない。今は共通科目の時間なのだろう。しかし、サボり常習犯の太宰にはまったく関係ないことだった。
「中也は、私のことなんかもう興味ないのかな……」
彼の悩みは幼なじみである、中原中也のことについてだった。中也とは幼稚園の頃から一緒の音楽教室に通っていて、付き合いは割と長い。太宰の両親は著名な音楽家で、その子供である太宰も音楽家になることを望んだ。太宰はそれが嫌ではなかったから、音楽の道を進んでもいいかなと思い、今まで続けてきた。なんとなくやっていても、他人には自分の演奏が素晴らしく聴こえるようで、どうやら自分には音楽の才能があるのだと悟った。なんとなくやっていた音楽を、本気で学びたいと思わせてくれたのが中也だった。中也が上達する姿を見たかったから、両親が勧めてきた音楽高校には行かず、普通の高校で太宰は3年間を暮らした。その頃になると、幼少の時のように中也と話さなくなっていたのだ。中学2年の頃に目標としていたヴァイオリニストが亡くなり、それがきっかけで音楽教室を辞めたからだった。結局別の音楽教室に通っていたものの、音楽そのものを辞めようか迷っていた時期だった。その後、どうしても中也の存在が忘れられなくて、音楽家として生きていくと決めた。中也は太宰に追いつくために必死に音楽を勉強して、太宰もその努力に報いたい気持ちがあった。
問題は、大学に入学してからだった。高校生だった当時、共通の友人から中也の志望校を聞いて「音大に行くんだな」と思った。音楽に関わりがない人でも一度は聞いたことがある、日本一の音楽大学だ。それなら私も、と思って太宰は中也と同じ学校を志望校にした。そこなら両親も納得してくれるだろう。何せ、両親はその大学の卒業生だからだ。ずっと留学を勧められていたが、太宰は中也のことが気になって仕方なかった。そんな太宰は、中也の動向をいつも陰ながら見ていた。もう、中也と長年会話をしていないので、話しかけるタイミングすらよく分からない。学内で「久しぶりだね」と声を掛けたら、中也は私とまた話してくれるだろうか。中也はいつも、友人と思しき人に囲まれている。去年の文化祭は、アンサンブルを何個も組んで掛け持ちして、ステージに上がっていた。中也と他の誰かが演奏しているのを見るのは何となく嫌で、中也が演奏している姿を見ることができなかった。
「なんか、私すっごい中也に執着してない?」
織田作はどう思う? と太宰は心の中で亡き友人に問いかけた。考えてみれば、何も中也にそこまで拘らなくても良いではないか。中也は確かに私の音楽人生を変えた人だ。それは間違いない。かといって、見方によってはストーカーみたいに中也を追って、私は何を得たいのだろう。
――太宰は中原を得たいのではないか?
心の中からさも当然かのように、友人の声が聞こえた。
「中也を、ねぇ……。なんかそれって、中也のことを音楽家として、というよりは恋人として手に入れたいって感じだけど?」
――ずっと、そうだったではないか。
「織田作には、そう見えてたんだ」
――同時に太宰の音楽の原点も、中原にある。お前は中原と一緒に、音楽がしたくてたまらないんだ。
「そうだね。でも、中也はもう、私と演奏したくないかもしれない」
――何故そう思う?
「あれだけ私のことだけ追いかけていた中也が、他の人とばかり演奏しているから」
織田作は今でも太宰の心の中に居て、太宰の悩みを聞いてくれる。太宰は落ち着こうと思い、購入してあったカフェオレを一口飲んだ。
――他の世界を知ることも重要だろう。私はいい経験になっていると思うがな。そう思う余裕がないくらい、太宰は中原の周りの人間に嫉妬している。違うか?
あぁ、これだからこの友人は。忖度なしに私と対等に話してくれる。もう一生会えないなんて、本当に残念だと太宰はいつも思う。織田作ならこう云うであろう言葉は、心の中にストンと落ちた。
「うん、認めるよ織田作。私は中也のことが好きで、一緒にまた演奏したい。恋愛感情もあるし、音楽家としても尊敬している。諦めずに私を追ってきた中也はすごいよ」
――それなら、あとは行動あるのみだな。
行動ねぇ、と太宰は考える。今だって、実技で演奏がある講義には行くようにしている。もしかすると中也と演奏できるかもしれないからだ。それだけでは足りないのかもしれない。一緒に演奏するとなると、サークル活動ならやりやすいかもしれない。あぁでも、他のメンバーが居ては中也をひとり占めできない。何かサークルを作ればいいのか。サークルにするには確か、3人以上の部員が必要なんだよな。顧問はどうにでもなるから良し。メンバーは、私と中也が確定。幽霊部員になってくれそうな人、居ないかな……? 周りを見渡すと、教科書を読んでいる人が一人だけいた。私と中也のためだ、と思い、太宰は声を掛けた。
「あの、すみません」
「なんだ? ……貴方まさか、あの有名な太宰治さんか?」
こういう反応をされるのはもう慣れているので気にしない。声を掛けた人は眼鏡をかけていて、長髪を結っているスラリとした男だった。この姿は見たことがある。確か、作曲科首席の国木田独歩だ。
「そうです」
「何か用が?」
太宰は適当に嘘をでっち上げようと思ったが、とても真面目だと噂される彼に嘘を吐くと、バレた時にとても面倒なことになりそうだったので本当のことを話した。
「なるほど、事情は分かった。想う相手が居るんだな」
噂通り、国木田は太宰の片思い話をとても真面目に聞いてくれた。良い人ではないか。
「そうなんだよ。それで、国木田さんの名前を貸してくれないだろうか。ここに国木田さんが居たのも何かの縁。突然な話であることは承知の上だよ」
「一つ条件をつけたいんだが、いいか?」
「私にできることなら」
「ではまずこの楽譜、見てもらえるだろうか」
渡されたのは、国木田が作ったと思われる曲の楽譜だった。ざっと見た感じ、人間が簡単に弾けるとは思えない。
「これは、俺の理想をすべて注いだ曲だ。俺はこれを、機械ではなく人間に演奏してほしい。他の皆からは『そんなの弾けるわけない』と云われるんだが……。腕利きの奏者である太宰さんなら、弾けないだろうか」
なるほど、そう来たか。楽譜を見つめながら、太宰は演奏方法をイメージする。初見では確かに演奏できない。しかし練習すれば、できると思った。
「分かった。私でも練習しなきゃ弾けないけど、やるよ。何年かかかるかもしれない。それほどこの楽譜は難しい。国木田さんが一番知っていると思うけど」
「本当か! やってくれるなら時間がかかっても構わない。それなら俺も、太宰さんに力を貸そう。よろしく頼む」
なんだか、この人とも良い友達になれそうだなと思いながら太宰は国木田と握手をして、まずは連絡先を交換し、今日の所は解散した。
――ほら、どうにかなりそうだろ?
まだ中也への道は遠い。1番括弧すら、まだ到達していない気がする。まだ2番括弧、ダ・カーポしてダル・セーニョ、そしてコーダに飛んで、恋が成就するまで。
「道のりは長いけど、なんとかなっちゃいそうな気がしてきたよ」
――また、顔見せにきてくれ。中原との進捗も聞かせるんだぞ。
「分かったよ、織田作。またカレーパン持って行くから」
太宰はカフェオレを飲み干し、席を立った。そして、サークル活動の申請用紙をもらうために歩き出した。