「じゃ、行ってくる」
いつもと同じように支度を整えた朝だった。中也は忘れ物がないか、頭の中で確認しながら玄関へ向かう。その後を、相棒兼恋人の太宰がついていく。
「中也、今日はちゃんと聴きに行くからね!」
「サンキュ。手前が居てくれるなら俺は、安心して演奏できる」
「君なら大丈夫だ。ほら、いつものおまじないをしてあげよう」
すると太宰は中也の右手を取り指先にそっと口付けた。左手にも同じように口付け、最後に軽く唇にも口付けた。今日の口付けはほんの少し――十六分音符分くらい長かった。中也は名残惜し気に、いつもよりゆっくりと離れていく唇を追い掛けたくなったが衝動を抑え込んだ。今日という日に、これ以上太宰を頼ることは出来ないのだ。
「いってらっしゃい」
ふわりと微笑む太宰を眼裏に焼き付けながら、中也は家を出た。
初めて大学の試験で「双黒」として演奏してから、かれこれ7年程経った。太宰の相棒として日々音楽活動を続けていく中で、中也の「太宰と対等でありたい」という想いは強くなっていった。留学していた時だって、注目されるのはいつも太宰が先だった。太宰は幼い頃からコンクールで名だたる賞を獲得し実績を積み上げてきたのだ。それは最早中也の力ではどうしようもない、「経験」という名の壁だった。双黒としての仕事も次第に増えていったが、やはり太宰の影響が大きいと云わざるを得ない。太宰が居るから集客が成り立っているのもあるし、太宰と活動しているおかげで中也個人にも仕事が入ってくるようになった。音楽だけで生活出来る人間はほんの一握りだが、太宰のおかげで中也は今、音楽だけで生計が成り立っている。好きな音楽を仕事に出来ただけでなく相棒にも恵まれ、幸せな毎日を送っているとも思う。しかし、2人揃って双黒である以上、立場も実力も貢献度も等しくありたいと中也は思っていた。太宰ばかりに頼っているつもりはないが、この7年間は太宰が居たからこそ成立したのだ。その事実は中也を大いに苦しめた。なんとかしよう、なんとかせねばならぬと考えて思いついたのは、「太宰がコンクールで獲得した賞を全てとる」ことだった。音楽がコンクールだけではないことなんて百も承知である。しかし、目に見える形で実力を示したい場合は別だ。中也が太宰と組んでいることを良しとしない客も一定数居ることは、よく知っていた。中也自身も太宰との経歴の差を分かりやすい形で埋めたいと思っていた。思いついたこの方法は、正にうってつけだったのだ。
中也は太宰に相談なしでこっそり成し遂げようと思っていたが、同棲している上業界が同じなので隠し通すのは無理だと判断した。太宰に打ち明けると、「君の気がそれで済むのなら、私は応援するよ」と云われた。講師の紹介は必要かと聞かれたが、それも断った。太宰の手は借りずに自分の力だけで成し遂げたかったのだ。今までの伝手をフル活用し、中也はそれぞれのコンクールに最適な講師を探し教えを乞うた。そして、ひとつひとつ太宰の後を追うように賞を獲得してきた。
今日中也が参加するコンクールは、この挑戦をしようと決めた後、最初に参加したコンクールだった。コンクールにもレベルがある。これは、太宰が参加した中で一番難易度が高いものだった。この業界の人間なら誰でも知っている程だ。最初に挑戦することで、中也は自分の立ち位置を知りたかったのだ。初めて参加した時の結果は惨敗だった。その後も飽き足らず、毎年挑戦を続けていた。最初は予選落ちしたものの、何度も挑戦するうちにより上位に進むことが出来た。ファイナルまで残ったのは今回が初めてだ。賞を地道に獲得し、一番最後に残ったものがこれだった。今回最優秀賞を獲得することが出来れば、中也は正真正銘、太宰と同じ位置に立つことが出来るのだ。
中也はとてつもなく緊張していると感じつつも、それを極力感じていないふりをしながら会場へ向かった。中也は普段から時間に余裕をもって行動するが、今日はいつもに増してゆとりを持たせてある。おかげで予定より2時間も早く会場に到着してしまった。今更どこかカフェを探すのも気が引けて、会場内にあるレストランに入った。朝食もきちんと食べてきたので未だに腹は空いていない。かといって入ってしまった以上、注文しないわけにもいかない。本番前にヘビーなものは食べたくなかった。メニューを見ていると、ティラミスの写真が目にとまった。そう云えばいつだったか、たまたま気分が乗って作ってみたティラミスを、太宰が美味しそうに食べていたことを思い出した。俺が優勝したら、太宰は喜んでくれるだろうか。形式的にも対等になったら、太宰の隣で、思う存分演奏出来るだろうか。まだ分からない不安と緊張を抱えながら、コーヒーとティラミスを注文した。
時間に余裕があるので普段に比べて随分ゆっくりと食べたつもりだった。しかし、食べ終わってもまだあと1時間程時間があった。今日演奏予定の曲の楽譜でも見直そうかと思ったが、練習はしつくした。年齢的にも、このコンクールに参加出来るのは最後だ。だからこそ練習は悔いが残らないように、それこそ徹底的にしてきた。本当に今になってやれることはないのだ。後は本番を待つのみ。リラックス出来るような曲はないかと思い、端末の音楽アプリを開く。ランダムで曲を再生すると、大学生の時に初めて試験で演奏したモーツァルトが流れてきた。懐かしさに目を細める。最近はコンクールの為に時間を使ってきたので、太宰とはあまり演奏が出来なかった。聴くうちにやっぱり一緒に弾きたくなったので、コンクールが終わったらまた太宰と演奏会を開こうと思った。
思い出に浸っていたら時間はあっという間に過ぎ去った。会計を済ませ、受付に向かう。そして、控室に通された。今は他のファイナリストの演奏をモニタリングしながら出番待ちというわけだ。ファイナリストたちは皆、一度は名前を聞いた事があるような実力者揃いだ。中也はひたすら太宰の背中を追ってきたので、今までのコンクールでは他の出場者のことはあまり気にならなかった。しかし、今日だけは違った。目標達成間近でこれが最後のチャンスだからだ。今になって周りを見れば皆、将来を期待されている者ばかり。年齢も中也より年下だった。その中にただ独り、中也は存在している。
(俺はこのコンクールに、ファイナルに、出場すべき人間だっただろうか。こんな中途半端な人間より、もっと有望な若手が居たのではないか。選ばれるべき人間は、俺でよかったのだろうか。そもそも試験の時、太宰と一緒に演奏することになったのは偶然ではないか。太宰の相棒は本当に俺でいいのか? 俺は相応しいのか? いや、相応しくなる為にこれに参加するんだろ? 何を今更怖気付く必要があるンだ)
今まで抱えていた不安と焦燥感が一挙に中也を襲う。嫌な思考がぐるぐると頭の中を蝕んでいく。胸も不安でいっぱいになり、仕舞いに手まで震え出した。あれ、おかしいどうしよう、と混乱し始めた体と心を治めようと深呼吸しようとする。なかなか上手く息が吸えない。苦しい。パニック寸前の所で、コンコンとドアがノックされた。「そろそろお時間です」と告げられ、中也はのろのろと重い足取りでステージへと向かった。
舞台袖で待機するも、今演奏中の曲は全く耳に入って来なかった。大丈夫大丈夫、となんとか自分をなだめようとする。心音がバクバク煩い。深呼吸はまだ出来ない。普通に呼吸するので精一杯だ。こんな緊張、今まで味わったことがなかった。太宰と組むまで、コンクールなんて全く興味がなかった。「太宰がどんなにすごい賞を獲ろうとも、俺は俺のやり方で地道に活動して、肩書なんて関係なく俺自身の演奏を気に入ってくれればいい」と思っていた。今でも最終的には中也自身の演奏を気に入ってもらえればそれだけで嬉しいと思っている。しかし、双黒として活動しているとどうしても太宰が先に注目される。「聴いてみたら太宰じゃない方もいいよね」というきっかけで中也のファンになった人も居る程だった。消去法のような自身の認識のされ方に、中也はショックを受けた。だから、今ファンの人にも、これからファンになるかもしれない人にも、きちんと「中原中也」という存在を知らしめたいのだ。今日の演奏は必ず成功させなければならない。中也は震える手を握りしめた。
暫くすると拍手が聞こえてきた。前の奏者の演奏が終わったのだ。いよいよ中也の出番がやってきた。結局とてつもない緊張と不安を抱えたまま、舞台へ出て行く。体が強張って、歩行すらぎこちない気がしてしまう。未だ震える手に叱咤する。定位置まで歩き、客や審査員に向かって深くお辞儀をする。顔を上げた時だった。正面にある遠い入り口から光が差し込んだ。思わず目線がそちらへ向かう。どうやら、ギリギリになって入場した客が居たようだ。その客に中也は驚いた。遠くからでも判別出来る。何せ何年も近くで見てきたから。そのシルエットは――太宰に他ならなかった。今までのコンクールで、太宰は来る時もあれば来られない時もあった。来る時はいつも、一般客に混じって大人しく聴いていたらしい。だからこんな、明らかに「いかにも来ました」というアピールをされたことがなかった。一目で来ていることが分かり、驚きと共に安心感が広がる。太宰が居れば、大丈夫なのだ。「あぁ結局、太宰に頼っちまった」と思いながら深く呼吸をした。いつもの感じが戻ってくる。楽器を構え、演奏を始めたのだった。
その後、中也は無事に最優秀賞を獲得することが出来た。
今までお世話になった人々に散々祝われ、中也が部屋に戻ってこれた頃には既に午前0時を過ぎていた。リビングやダイニングの電気は消されていたので、太宰はおそらく寝室だろう。中也自身も今日は疲れたしもう寝ようと思い、寝室に向かった。ドアを開けると、太宰はベッドサイドライトの薄明かりの中で小説を読んでいた。
「中也、おかえり。おめでとう」
「遅くなったな太宰。今日はありがとな」
中也はベッドに乗り上げ、太宰の膝に跨がり抱き締めた。
「その割に、あまり嬉しそうじゃない気がするけど。……やっぱり私のせい、だよね。君の視界に入るタイミングで、客席に入場したから」
「俺は、もっと喜ぶべきなんだよなきっと。手前だって、良かれと思ってやったんだ。そうだろ? 実際、俺はそれに助けられた。あの時手前が来なかったら俺は、緊張と不安でいつも通りの演奏が出来なかった。賞も獲れなかったと思う。それでも、ひとりでやりきりたかった気持ちもある。さっきもたくさんの人に祝ってもらったけど、全然頭に入ってこなくて……。太宰、俺は、この気持ちをどうすべきか分からない」
「私ね、だからずっと迷ってた。中也が私の助けを拒んだのは、やっぱり独りで成し遂げたいんだろうなと思ってね。でもね、私だって、君の力になりたかったんだよ。ずっと何も出来ないのは嫌で、最後に何か出来たらと思って、今日のことはやろうと決めたんだ」
「俺は手前を責められねェ。だって、本番の日はいつだって、家を出る時にまじないかけてくれたから。俺だって、太宰が力になりたいって思ってくれてることは分かってた」
「……だからお互い、少しの間距離をおいてみないかい。君はこれから忙しくなるだろうし、私もちょっと遠い会場で集中練習があるから。丁度いいだろ。暫くこの部屋は、君が好きに使うといい。明日になったら、私は部屋を出るよ」
「そこまでする必要は」
「あるでしょ。君、そう簡単に私を許せないんじゃない? こうなるなら、最優秀賞なんて要らなかったって思ってるでしょ。分かるよ、何年も君を隣で見てきたから。負けず嫌いだもの。十分すぎるほど、私にも分かっていたんだ。手を出したら、結果がどうであれこうなるだろうって。でも、止められなかった」
「だざい」
中也の視界は、一気に揺らいだ。
「うん」
「ばかやろう」
雫がポタポタと、太宰のシャツに落ちていく。中也が太宰の胸を拳で叩く。トン、トンと。
「ばか、やろう。……ばかやろう」
トン。
「うん」
トン、ポタポタ。
「くやし、い」
シャツに落ちた雫がどんどん広がっていく。
「……そうだね、悔しいね」
太宰は中也を抱き寄せ、頭をそっと撫でた。暫く静かに中也は泣いていたが、疲れもありそのまま眠りについてしまった。
「君のことが、いつも愛おしくてたまらないんだ。許してくれとは云わないけれど、私の気持ち、どうか分かっておくれ」
綺麗な赭色の髪を優しく撫でながら、太宰は呟いた。
翌朝中也が目覚めると、いつも感じる温もりがないことに気が付いた。のそりと起き上がり、恋人の姿を探す。キッチンにもリビングにも、練習室にも太宰の姿はなかった。楽器ケースも見当たらない。どうやら本当に出て行ってしまったらしい。中也は溜息を吐くと、キッチンに向かい朝食の準備を始めた。手際よく食パンをトースターに入れ、焼ける間にサラダ用の野菜を切る。無心になって切っていたら、いつもの癖で2人分用意してしまった。「まぁいい、昼にでも食べよう」と思いながら皿に盛りつける。最後に簡単なコンソメスープを作って完成だ。焼けたトーストも取り出し、出来上がった朝食をダイニングへ運ぶ。そこで、いつものコーヒーがないことに気が付いた。いつも朝のコーヒーは、太宰が淹れてくれていた。朝は慌ただしく時間がないため、インスタントのコーヒーだ。インスタントのコーヒーでも、太宰が淹れてくれたというだけで値段以上においしく感じていた。今日はコーヒーも自分で淹れなければならない。電気ポットで湯を沸かし、コーヒーを淹れる。出来上がったコーヒーを飲んでみても、何となく物足りない気がしてしまった。隣に太宰が居ないのは、こんなにも寂しく、物足りなく感じるものなのか。
朝食を食べながら、中也は昨日の出来事について思考していた。寂しく思うのは確かな感情だった。しかし、太宰に云われた通り、そう簡単に太宰のことを許せるのかと問えば、やはり「ノー」と云わざるを得ない。出来なかったら出来なかったで潔く、賞は獲れなくてもよかった。むしろ、獲るべきではない。自分との戦いに負けたのだから。自分との戦いに負けたクセに、最優秀賞を獲ってしまった。それも、追いつき追い越したかった太宰の力を借りて。太宰は中也がこう思うことを分かって、水を差すようなことをした。
「本当に、どうやってこの気持ちにカタつければいいンだ……」
中也は椅子の背もたれに体重を預け、虚空を見つめた。
「お邪魔しまーす」
「どうぞ。まぁ、こんな所なんですけど太宰さんが良ければ」
「私は別に拘りはないから構わないよ。それにしても敦君、本当にいいのかい? 暫くここに居ても」
「僕は太宰さんに助けてもらいましたから。いつか恩返しがしたかったんです。なかなか機会がなくて、どうしようかと思っていた所でした」
太宰は、大学の後輩である中島敦の部屋を訪れていた。敦は入学試験の時に道に迷っていた所を太宰に助けられたのだった。試験会場に案内するついでに、敦の演奏をこっそり聴いていた太宰が敦に演奏のコツを教えた。それがきっかけで敦が太宰に所謂レッスンを頼んだのが始まりだった。
「あぁレッスンのこと? それなら全然気にしなくていいのに。だって、レッスン代だって貰ってたし」
敦が太宰をダイニングに通し、椅子に座らせた。向かいのキッチンにある冷蔵庫を開け、お茶を準備する。
「いやいや、こともあろうか太宰さんのレッスンが一回につき蟹缶一個だなんて、他の人が聞いたら何て云われるか分かりませんよ! かといって、僕はお金がなかったから当時はあれ以上払えなかったとは思いますが……。だから感謝しきれません」
両手に持ったグラスに、注いだお茶をこぼしそうな勢いで敦は云った。そして、太宰にグラスを渡した。
「久しぶりにガッツがある子に出会ったなぁと思ってね。困ってるみたいだったから、助けたくなったんだよ。お茶、ありがとう」
「そういえば、太宰さんがオケに出るのも珍しいですよね。クリスマスの時も確か出演されてましたよね?」
「うん、そうだよ」
「何か、きっかけでもあったんですか? やっぱり中也さんの影響ですか」
「何で、そう思うんだい?」
「いやっあの……、クリスマスのオケの時、中也さん妙に太宰さんの方見てるなって思って」
敦は太宰と中也が参加したクリスマスコンサートに、ヴァイオリンで参加していた。パートは中也と同じファースト。因みに敦は、太宰と中也が恋人という関係にあるのを知っている数少ない人物である。太宰はグラスをテーブルに置くと逡巡し、顎に手を当てながら答えた。
「アレはね、私のことが心配だったのだよ。知っての通り、私がオケに参加することは本当に珍しい。あのオケ、誘ってきたのは中也だったからね。私も、誘ってきたのが中也だからあの話は受けたんだ。周りと合わせるのは確かに大変だし苦手だし苦痛もあるけど、中也がいるからなんとかなるかなって思えた」
「それで、今回も何故オケに参加することにしたんですか? 今回は中也さん居ないですよね」
「そうだね。確かに中也は居ない。いやね、少し中也から離れた方がいいのかなと思って。敦君は知ってるかい? 中也が私の後を追って、私が出場したコンクールに片っ端から参加していたのを」
「あぁ、それならご本人から前にちらっと聞きましたよ。もうすぐ達成するって云ってました。とても嬉しそうだったな。それが関係あるんですか?」
「中也が目標を達成すれば、世間から見ても明らかに実力者ということが露見する。そうなると仕事が増える。私がそうだったからね。今までは双黒としての活動を優先出来たけど、そうもいかなくなってくる。いつまでも一緒に弾いていて心地良い中也に慣れきってしまったら、他の人ともう一生、弾けなくなってしまうような気がしてね。それはそれで、仕事として音楽を続けるために今後困ると思ったんだ。だからこれは、自立するための練習みたいなものだよ」
「太宰さん、変わりましたよね」
「そうかい?」
「はい。個人的な印象なんですけれど、太宰さんはとにかく孤高なイメージだったので。演奏会も単独でやることが殆どだったじゃないですか。こんなに変われるなら、太宰さんにとって中也さんは、よっぽど大切で大事に想っている人なんでしょうね」
「ふふ、云われてみればそうだね。自分の変化に気付かない程、中也のことばかり見てきたってことかな。中也が追いかけてくるなら、私も追いつかれないようにしないとね」
「あの、招いた僕が云うのもアレですが、本当に帰らなくていいんですか? 中也さん最優秀賞獲ったんですよね。祝ってあげないんですか?」
「いやそれがね、私が水を差してしまって。それで距離を置きたくて、宿を探していたのだよ」
「成程、少し事情が分かった気がします。『いい宿知らない?』って聞かれた時、何だろうって思ったんですよ。また太宰さん、何をしでかしたんですか?」
「敦君、私がしでかした前提かい?」
「えー、だって中也さんから話聞いてると大体太宰さんが嫌がらせしたり、嫌がらせしたり、嫌がらせしたりしてるので」
「悪意はなかったのだけれどね。普段の嫌がらせもそうだ。スキンシップみたいなものだよ。私、中也を応援したくてたまらなかったんだ。でも、講師も紹介させてもらえなかった。出来たのはおまじないくらいさ。それくらいじゃあとても足りなくて、昨日、中也の演奏が始まる直前にホールに入ってアピールした」
「ほら、やっぱりしでかしてるじゃないですか! 演奏直前に、下手したら集中力切れちゃいますよ」
「いいや、私には力になれる確信があったんだ。だって中也のことだから。問題点は少し違う所にある」
「どういうことですか?」
「中也はめでたく最優秀賞を獲った。何故中也が私からの講師紹介を断ったか分かるかい? 独りで成し遂げたかったからだ。本人曰わく、とても緊張していたそうだよ。私が来なかったら賞は獲れなかったと思うほどにね」
「……つまり、ひとりで成し遂げたかったことに太宰さんが余計なことをしてしまった、と」
「まぁ、そういうこと」
「でも、結果的に賞はちゃんと獲れたんだし、それでは駄目なんでしょうか」
「中也はプライド高いところあるからさ。許せないんだよ。自分のことも、私のことも。私もそうなるって分かって行動したからね、何とも云えないや」
「だから太宰さん、なんだか寂しそうなんですね」
「あはは、やっぱりそう見えるか。もっと喜びたいんだけどね、素直に喜べなくなっちゃった。中也も嬉しそうじゃなかったしさ。……それにしても、つまらないな。こんなの」
「珍しい。いつも中也さんのことに関しては自信満々なのに。話を聞いたら僕も複雑な気持ちになってきちゃいました」
「こんなこと聞かせて済まないね、敦君。そうだ、宿賃代わりにご飯でも作ろうか?」
「あっ、いいえ、僕が作りますよ。太宰さんに作ってもらったんじゃあ、恩返しになりませんから!」
「わかった。では、任せることにしよう。作るの大変だったら外食でもいいからね。お代は私が払うし。無理はしないように」
「はい。ありがとうございます。中也さんと、早く仲直り出来るといいですね」
「そうだね。何か解決方法、ないかなァ……」
太宰はお茶を少しずつ飲みながら、思考の海に沈んでいった。
太宰が部屋を出てから、3ヶ月ほど経った。あれから中也は、太宰が云った通りに忙しくなった。演奏は勿論のこと、講演会や学校への指導、雑誌のインタビューなどの依頼が一挙に舞い込んできた。既に入っていた仕事と新たに入ってきた仕事のスケジュール調整に追われ、漸くどうにか目処がついたところだった。まさか、賞ひとつでこんなに生活が変わるとは思っていなかった。あれよあれよと忙しくなってしまったので、中也自身の気持ちの整理は未だについていない。それを考える暇も余力もなかった。
今日の仕事は、老舗音楽雑誌のインタビューだ。双黒として演奏するようになってから一度だけ、インタビューは受けたことがあった。会場の指定はこちらがしても良いとのことだったので、中也馴染みの喫茶店を選んだ。少し暗めで落ち着いた雰囲気の店。客席同士も距離が広めに取ってあり、場所によっては壁があるので周りを気にせず過ごせる。中也は久しぶりにゆっくりしようと、今日のために予定より早い時間で予約をしていた。
店に入ると、予約していたからか店長に案内してもらえた。店の奥にある、予約専用の場所だ。壁で仕切られている上に一般客とは離れているので、落ち着いて会話が出来る筈だ。席につくと早速コーヒーを注文した。
ここにはよく世話になっていた。双黒の打ち合わせは、基本的にここでしている。最初は自宅でしていたが、お互い譲れない部分がありすぎて口論になることがよくあった。人の目もありながら落ち着けるこの店が、ふたりにとっては冷静に議論出来る場所だったのだ。ここでなら、何か答えが見つかる気がしていた。だから中也はここに来た。
太宰は今頃、どうしているだろうか。
ぼんやり考えていると、注文したコーヒーが運ばれてきた。小袋に入った豆菓子を小皿に出し、一粒口に運ぶ。ボリボリと咀嚼した後飲み込んで、ゆっくりとコーヒーに口をつけた。熱くて苦い液体が、喉を流れていく。一息吐くと、再び太宰について考え始めた。
タイミングを見計らって、そのうち帰ってくるだろうと思っていた。帰ってこないとなると、恐らく中也が呼び戻すまで帰ってくるつもりはないのだろう。
食事はどうしているのだろう。また蟹缶三昧の生活になっていないだろうか。洗濯は? 掃除は? ゴミ出しを忘れていたりしないだろうか。……多分、大丈夫だ。太宰はただやらないだけで、家事が出来ない訳ではない。その証拠に家事を分担したら、思った以上に協力してくれた。
仕事は上手くいっているだろうか、と思ったが、仕事の心配はむしろしなくても良い。太宰は元々ひとりで、音楽家として稼いで生活していたのだから。
(太宰は俺と居て、幸せだったのか?)
(あいつはひとりでも、生きていけるじゃねェか)
(俺は、必要ないかもしれねェ。むしろ、邪魔なのかもしれない)
(隣に太宰が居なくて寂しく思うのも、俺だけだったりして)
まだ飲みきっていないコーヒーカップの底をじっと見つめた。黒々とした底知れぬ闇に、引き込まれそうだった。
苦い闇をなんとか飲み干した頃、中也のインタビュー担当者が訪れた。
「こんにちは、中也君」
「誰が来るのかと思ってたンですが、あなたでしたか広津さん。あ、何飲みますか?」
「では、アメリカンで」
広津を案内してきた店員に中也が注文をした。
「そりゃあ、世界に名だたる賞を獲ったんだ。私が行かなくてどうする」
広津は永らく続く、老舗音楽雑誌の編集長をしている。太宰へのインタビューは幼少の頃からほぼ広津が担当しており、太宰からの信頼も厚い。丁寧な問い掛けで、取材される側の本心を確実に引き出していくのだ。
「と云っても広津さんは編集長ですよね。忙しいのに俺に時間を使ってもらって、ありがとうございます」
「いやなに、気にすることではない。最終的には私が決めたことだ。それに、太宰君の頼みでもあったしな」
「太宰の野郎が何か云ってたんですか?」
「いつかインタビューしてくれと云われていた。太宰君が大学に入る少し前の頃だったかな」
「そう、だったんですか」
「太宰君は君に、随分入れ込んでいたよ。だから私も、この時が来るのを楽しみにしていた。本当におめでとう」
「ありがとうございます」
「仕事が忙しくなっただろう。最近はお疲れかな?」
「そうですね。以前はスケジュール調節をしなきゃいけない程、仕事がなかったですから」
「それで、賞を獲って少し経ったけれども、今までと変わったところはあるかね? 聞く限り、『何もかも変わった』という印象を受けたが」
「レッスンしていた生徒がみんな、改まってしまって。俺としては、前の接し方のままでいいのに。堅苦しいのは嫌なんですよ」
「生徒たちも振舞いに迷っているんだろう。中也君が根気強く普通に接していれば、きっとまた打ち解けられると私は思うよ。今は環境が変わったばかりだから、君自身も不慣れな部分はあるだろう」
「確かに俺も環境が変わったので、スイッチの切り替えが上手くいってないと感じることがありますね。そうか、生徒たちに空気感の差と云いますか、それが伝わっちゃってるのかもしれないですね」
「少しずつペースを掴んでいければ、それでいいと思う。焦る必要はない。他にはあるかね? 変わったことは」
「他に、ですか」
大アリなのだ。今まさに、絶賛悩み中である。それを広津に話してもいいかどうか、中也は迷っていた。あの太宰が信用している人だ。おそらく「このことは記事にしないでくれ」と頼めば話は聞いてくれる。
「その様子だと、何かありそうだ。話せることだったら聞かせて欲しい。なに、インタビューに関係ないことでも構わんよ」
そこまで云ってもらえるなら、話してもいいと思えてきた。最早自分だけでは解決出来そうにないからだ。何か、解決の糸口を見つけたい。太宰を嫌いになった訳でもないし、ずっと会えないのは嫌だった。寂しさが胸を焼いて、会いたくて仕方がない。関係ないこともないが、これはプライベートのこととして話をしたい。少し考えてから、中也はこう申し出た。
「申し訳ないんですけど、このことは記事にしないでください。それでもいいですか? 本当は、誰かに話したかったんです」
「ほう、そこまで悩んでいるのか。分かった。この話題は記事にしないし他言しないと約束しよう。中也君の話を聞かせて欲しい。私でも何か力になれるかもしれん」
「実は俺、太宰と一緒に住んでいまして」
「あぁ、それは太宰君から聞いているよ」
何だ彼奴、広津さんには話していたのか。他の誰からも一緒に住んでいることは聞かれなかったし、情報が外に漏れてトラブルに発展したことも今までなかった。これは確かに、信用出来る人なんだろうなと中也は判断した。
「あ、知っていたんですね。それがちょっとまぁ、喧嘩、をしてしまって。彼奴、家を出たきり帰ってこなくて」
「ほう。何故、太宰君は家出を?」
「先日のコンクールの時、俺は今までないくらいに緊張していたんです。出番が来て舞台に立っても、緊張と不安で震えが止まらなかった。演奏を始めようとした時、丁度太宰が来ました。その姿を見て、俺は安心できた。だから、今回賞を獲れたのは俺の力ではないんです。俺は、太宰に追いつきたくてコンクールに出ることにしました。それなのに、太宰の力を借りてしまった。俺は、そうなるくらいなら賞なんて要らなかったんです。太宰はそんなことをしたら俺がこう感じるって分かっていてやった。太宰が俺を応援してくれていることはよく分かっていました。でも俺は、それを許せなくて。それで喧嘩になりました」
「成程、難しい問題だ。中也君、君がどう捉えようと、最優秀賞を獲った事実は変わらない。太宰君が来なかったとしても、納得いく演奏が出来た可能性だって否定できない」
「それは、分かっているつもりです」
「君は何故、コンクールに出ようと思ったんだい? コンクールに出始めたのはここ数年じゃないか」
「太宰に追いつきたくて」
ただ、自分に自信をつけたかった。他人に認められたかった。太宰の隣で演奏してもいいと、自分が思えるだけの自信が欲しかった。または他人から、太宰の相棒に相応しいと云われたかった。自信は後からついてくるものだと思っていたが、何年経っても確固たる自信は持てなかった。常に不安だった。このままでいいのかと何度も問い続け、太宰と同じ賞を獲ることで不安が解消されると思った。必死に頑張って、目標は達成された。周りの人たちはみんな喜んでくれて嬉しかった。でも、何かが足りないのだ。これ以上、何があると云うのだろうか。中也は一番大切な何かを忘れている。
「中也君は自分のことを、太宰君より下だと思っているのかい?」
「そりゃあそうでしょう。彼奴は今までずっと音楽で生活しているし、賞だってたくさん獲ってる。力量に差はあると思っています。悔しいですが、彼奴の演奏はすごいんです。俺が一番良く知ってる」
「私は先程太宰君が君に入れ込んでいたと話したが、彼と組んでみたい奏者は中也君の他に何人も居たんだ。知っているかい?」
「双黒として活動するきっかけだった試験以外でと云うことですか?」
「そうだ。太宰君は、すべてのオファーを断り続けた。何故だか分かるかね?」
中也は考えた。太宰はこんな事、一言も云っていなかった。最初から孤高だったと思っていたが、もしかしたらそれは違うのかもしれない。
「俺と、弾きたかったから……?」
「君が良かったんだと思うよ、私は。永らく太宰君とは付き合いがあるが、太宰君が必死になるのはいつも中也君絡みだ。別に他の奏者と組んだところで、君と演奏出来なくなるわけでもあるまい。だけど太宰君は、中也君に拘り続けた。君は太宰君と釣り合わないと思っているようだが、太宰君はそんな風に思っていない筈だ。試験で演奏した時からもう、太宰君は君を認めているよ。太宰君は、中也君と一緒に演奏したいんだ。中也君はどうだろう?」
「俺は……。俺も、太宰と一緒に演奏したい。そうか。ただ、それだけだったんだ」
中也は、今まで心に引っ掛かっていたモノが漸く分かった。よくよく考えてみれば、今まで頑張ってきたのも太宰と一緒に演奏をしたいからだった。追いつきたい気持ちも確かにあったが、根本を辿っていくとどれも、「太宰と一緒に演奏したい」という思いに繋がる。賞を獲ることに必死で、こんなに単純なことを忘れていた。
「あとは本当に、中也君の解釈次第だ。少なくとも太宰君は、賞を獲っても獲らなくても君を迎え入れただろう」
「広津さん、ありがとうございます。一緒に演奏するために頑張ってきたのなら、俺はこの結果を、受け止められそうです」
今回のコンクールも中也自身のためだけではなかった。中也の力不足を補うためでもない。ただ、太宰と一緒に演奏したいと願う中也が、自らをより高め、太宰のために努力をした。それだけだった。
「そうかね。お役に立てて良かったよ」
「あの、太宰に電話してきてもいいですか?」
「勿論だとも」
「すぐ戻ります!」
中也はすぐに店の外へ出ると、太宰に電話を掛けた。4回目のコール音で太宰が応答した。
「もしもし中也?」
「太宰っ、一緒に演奏したいんだ。戻ってきてほしい」
勢いで思いを伝える中也に対し、太宰は冷静にこう云った。
「落ち着いたみたいだね」
「俺、気付いたんだ。コンクールに出ようと思ったのも、太宰と一緒に弾きたいからだったんだって。だから太宰、側で、弾かせてくれよ……!」
「もう君ったら、何を今更云ってるんだい。許可なんて要らないさ。一緒に弾きたいのは、私だって同じなんだよ」
「太宰……!」
「今日はちゃんと帰るよ。休憩終わっちゃうから、そろそろ切るね。あ、広津さんにお礼、云っておいて。相談してたんだ」
「わかった。じゃあ、またな」
「またね」
中也は安心した気持ちで電話を切ると、店内へ戻った。
「おかえり、中也君」
「広津さん、本当にありがとうございました。太宰の奴も、世話になってたみたいで」
「太宰君から『どうしよう、中也に嫌われちゃった』と電話があってね。本当に太宰君は、君のことになると冷静さを失くしてしまうんだ。人間離れした演奏技術に『まるでロボットだ』と評する人も居るが、中也君とのことを聞いていると彼も普通の人間なんだと思えてね。中也君と弾き始めて、太宰君の演奏も変わってきたと思う。鮮やかになって、より鮮明になったと思う。太宰君をこんなに変えた中也君のことも私は気になっていた。だからいいんだ」
「そう、だったんですか」
「さて、そろそろインタビューの続きを始めようか。早く終わらせよう。太宰君が帰ってくるだろう?」
「そうですね。お願いします!」
「中也、ただいま」
太宰は3ヶ月ぶりに我が家へ踏み込んだ。鍵を開ける音で気付いたのか、中也はすぐに玄関に出て来た。
「おかえり、太宰」
太宰がまだ靴を脱いでいないのにも関わらず、中也は太宰に抱きついた。太宰も中也の背に腕を回した。
「その様子だと、寂しかったみたいだね?」
太宰は中也を抱き締めたままもぞもぞ動きながら靴を脱ぎ、玄関に上がった。
「ひとりの時間が、こんなに寂しいなんて思ってなかったぜ」
中也は太宰が靴を脱いだ拍子に緩んだ腕に、再び力を込めた。
「離れた方がいいと思って私からそう提案したのに、やっぱり中也が隣に居ないとつまらなかった。もう1日か2日中也から連絡がなかったら、帰ろうかなと思ってたんだよ」
「手前、広津さんに泣きついたとか?」
「だって私、これでも自分がしたことの重大さは分かってるんだよ。自分がしたくてやったことで、今でも後悔はしてない。でも、中也に嫌われると思ったら怖くなって、不安だった。中也の側に居て生活してるとね、たまに、自分が自分なのか分からなくなる時があるんだ。『私ってこんな人だったんだ』って、君が、私でさえ気付いていなかった部分を掘り出してくれるの。新たな自分を見つけるのは、結構楽しいものさ。だから私、中也に嫌われたくないの。それで広津さんに相談したんだ。打ち明けられるの、広津さんくらいしか居なくてね」
「後でお礼に行こうな」
「うん。でね、これは、私を嫌いになってほしくなくて、どうしても中也が私の隣に居てほしくて用意したのだけれど」
手提げ袋から小箱を取り出し、蓋を開けた。中にはシンプルなデザインの指輪が入っていた。中也は目を見開いた。
「太宰、これは」
「君に贈るよ。私、音楽をしてる中也も好きだけれど、それ以外の中也も好きなの。中也が好き。今回の件でもし、君が音楽をやめたいと云ったとしても、私はそれを止めない。でも私の隣には居てほしい。嵌めてくれるかい?」
一瞬の間の後、中也は頭の中で太宰の言葉を反芻し、笑いが込み上げてきた。
「ふっ、ははっ、あの太宰が、こんな科白云うなんてな。本当、広津さんの云う通りだぜ」
「ちょっと中也、笑わないでよ。私は真面目なんだから。中也から『別れよう』って云われるかもしれないと思って必死で考えたんだけど、これしか思いつかなかったの!」
「いやいや、なんかあるだろそこは。……いやでも、俺が『別れよう』だなんて云ったらもう俺の中で別れることは決定してるからな。確かにこれしかないかもしれねェ」
「ほら! 私は最適解を導き出したんだからね! で、嵌めてくれるの?」
「おう、当たり前じゃねェか。俺だって太宰の全部が好きなんだからな」
「君さぁ、不意にそういうことサラっと云うのやめてくれない?」
「なんで? 云ってほしくないのか?」
「云ってほしいさ! でも、その、ドキドキしちゃうから……」
「舞台の上ではあんなにクールな太宰が?」
「あぁもう、君だからに決まってるじゃないか! ばか! あんぽんたん!」
「太宰も可愛いところあるよな。俺だけが知ってる太宰だ」
「満足そうな顔しちゃって。あのね中也」
「なんだよ」
「私、本番でもあまり緊張しないんだけどね、中也と演奏する時だけは緊張してるし、早く弾きたくて興奮してるんだよ。いつも楽しみで仕方ないんだ。こんな風になるのは中也とだけだから。もっと、味わわせてよ」
太宰は中也の手套をシュルリと脱がせた。そして、箱から指輪を取り出し中也の左手薬指に嵌める。サイズは丁度良いらしく、スムーズに中也の指に収まった。中也は嵌められた指輪を、手をかざして見つめた。
「シンプルでいいな、これ。ありがと。大切にする」
「楽器弾く時はつけられないと思うから、ネックレスチェーンも買ってきたよ。あと、当然のことながら私とお揃いだからね」
太宰は首元から指輪が通されたチェーンを取り出し、中也に見せた。
「太宰と、いつも一緒に居れるな」
「うん。ひとりの仕事も増えたでしょ? 私が居なくても、これで大丈夫」
「……ずっと一緒にいてェな」
小さな声で、中也はぽつりと呟いた。その言葉に太宰は愛しさが溢れ、中也を抱き締めた。
「手前が居ると、心強いし勇気が出る。コンクールの時もそうだった。ステージの上は独りで不安で、緊張もしてた。太宰が見えた途端、『大丈夫』って思えた。太宰、ありがとう」
「『ありがとう』だなんて云ってくれるの……?」
「最初は受け入れられなかった。でも、広津さんと話して、解釈の仕方が変わったんだ。俺だけのためじゃなくて、太宰のためでもあったんだ」
「私のため?」
「そうだ。一緒に弾きたい俺が今よりもっと上達しようと思ってやってきたことだった。今までずっと、俺ひとりで、自分だけのために頑張っているんだと思ってた。でも、それは違った。太宰、俺と演奏したくて他からの誘いを断ってたこと、聞いたぜ。それで分かったんだ、一番大切なのは『太宰と弾きたい』という思いだったんだって。だからな、これは俺たちが一緒に演奏するために、ふたりでやってきたことなんだよ。太宰はいつだって俺を応援してくれただろ」
「あーあ、内緒にしといてって云ってあったのになぁ。でも、中也がこんなこと云ってくれるとは思ってなかった。応援もね、嫌がるんじゃないかと思ってたんだよ。中也は独りで成し遂げたかったみたいだったから」
それを聞いて、中也はバツが悪そうだった。それでも太宰の目をしっかり見てこう云った。
「そう、なんだけどさ。本当に今更だけど、応援してくれてありがとう」
「……うれしい」
太宰は中也が自分を許してくれるとは思っていなかった。今回のことで、本気で中也から別れを切り出されると思っていたのだ。中也から電話があっても、太宰はどこか半信半疑だった。ただ寂しくなっただけで、中也の心の底では自分のことを恨んでいるんだろうと思っていた。それでも一緒に居たいから、恨みごと背負うつもりで中也に指輪を贈った。しかし、中也の話を聞くうちにそれは違うんだと思い始めた。そして、太宰の不安は徐々に消えていった。
「太宰?」
「中也が私と一緒に弾きたいって云ってくれてうれしい。コンクールのことも、ふたりで頑張ってきたことだって云ってくれてうれしい。中也の人生に、ちゃんと私が居るんだって思ってね、とにかく……うれしいんだ」
涙声で話す太宰の視界は歪んでいた。飽和寸前だった水の膜は簡単に破れた。瞳から次々と水滴が零れていく。
「おい泣くなよ。男前が台無しだぞ。あとな、俺の人生に太宰が居ねェわけないだろ。何年相棒やってると思ってるンだ。むしろ、手前が居ねェ人生なんてつまらねェんだよ」
太宰に抱き締められていた中也は、太宰の背中に腕を回した。大丈夫と云い聞かせるように優しく撫でる。
「ちゅうやぁ」
「なんだ?」
「一曲弾いてもいい? 今の気持ちを、これ以上言葉に出来ないから」
「おう。聞かせてくれよ、太宰の気持ち」
太宰はぎゅっと腕に力を入れてから中也を解放した。そして中也の手を取って練習部屋へ向かった。部屋に入ると太宰はピアノに向かった。椅子に腰掛け鍵盤の蓋を開け、布を取り去る。中也は太宰の斜め後ろに、見守るように立った。
太宰が弾き始めたのは、「愛の夢第3番」だった。柔らかく流れていくメロディーは、中也が聴いたどの演奏よりも優しい音がした。緩やかな曲調の時はあたたかで甘く、激しい曲調の時はあの太宰が珍しく感情的に弾いているように聴こえた。太宰は一人で演奏する時、自分の感情を織り込まないようにしていた。織り込むのは専ら、作曲者の意図だった。何故この和音になったのか、何故このアーティキュレーションになったのか、どういう背景があって曲を作ったのか。太宰はそれらを分析するのが得意だった。今までの太宰の演奏に感情が籠もっていないわけではなかったが、太宰がある種自己中心的に演奏するのは珍しかった。そして曲は流れていき、太宰は最後のアルペジオを優しく弾いた。音の重なりを味わってから、指を鍵盤からそっと離す。
「どうだった?」
椅子に座ったまま振り返って太宰は中也に問うた。
「揺れ動く感情が、すげぇ伝わってきた。いつものお客さんが聴いたら吃驚するだろうぜ。俺は好きだけど」
「だって、中也に向けて弾いたんだもの。私はいつも、中也に心動かされてるんだ」
「なぁ、何で2番じゃなくて3番なんだ?」
「勿論中也は恋人でもある。だから2番も迷った。でも、それよりももっと広い枠組みで君を、あいしてしまったから」
中也は返す言葉を探したがすぐに見つかりそうになかった。それならばと、代わりに太宰に近付き屈んで頬に手を添え、ありったけの愛情を込めて口付けた。
「太宰……」
中也が唇を離すと、添えていた手に太宰の手が重ねられた。
「もっと教えて? 中也の気持ち」
中也はそのまま手を引かれる。太宰は片手でポンポンと自らの膝を叩いた。
「この椅子、大丈夫か?」
これからの行為を想像して、中也が心配そうに尋ねた。
「君の心配はそこなの?」
太宰は立ち上がるとピアノ椅子を一番低い高さに調整した。「これでまだマシなんじゃないかな」と云って再び膝を叩き、中也の手を引いた。中也は導かれるまま、太宰の膝に向かい合わせで乗り上げた。
「明日は、太宰となんか弾きてェ」
「うふふ、つまり、今すぐじゃなくてもいいんだ?」
「誘ったのは手前だろ」
「うん。でも、熱烈なキスしてきたのは中也だよ」
「あんな演奏聴いてあんなこと云われたら」
「だったら中也も教えてよ?」
太宰は人差し指で自らの唇をトンと叩いた。中也は太宰の唇に、ゆっくりと口付ける。角度を変えながら一回一回丁寧に、何度も唇を合わせた。次第に物足りなくなってきた中也は太宰の上唇を舐め、軽く吸い付いた。すると太宰の唇が誘うように開く。中也がそろりと舌を差し込むと、挨拶と云わんばかりに舌を吸われた。ぬるぬる舌を擦り合わせ、互いの口内を行き来する。行き場を失った唾液が顎を伝って落ちていった。気付けば中也の口内は太宰に蹂躪されていた。歯列をなぞられ舌を愛でられ、喘ぎ声が合間に漏れ出ていた。
「……ふ、ンっ……だ、ざい」
「ちゅうや」
太宰は部屋着の下から手を差し込み、中也の腰を愛撫した。ビクリと震えた中也の体に、太宰は安心させるように触れていく。
「吃驚しちゃった?」
「太宰に触られるの、久しぶりだったから」
「大丈夫、ゆっくり溶かしてあげる」
太宰は中也の体をくまなく愛撫していく。中也の緊張は次第に溶けていき、体の無駄な力が抜けてきた。
「手前がエロい手付きで触ってくるとすげぇドキドキするから、なんつーかその、心の準備が要るんだよ」
「嫌ではないよね?」
「当たり前ェだろ。むしろ……好きだし気持ちいいぜ」
恥ずかしそうに、尻すぼみになりながら中也は云った。
「中也かわいい。じゃあ、今回は触る所云ってあげる。胸、触るね」
「ん」
中也の返事を聞くと、太宰は腹を撫で上げ胸に触れた。中也の左胸にぺたりと手を当てる。
「ほんとだ。すごいドキドキしてる。いつもこんなになってるの?」
「今日は余計だ」
「中也も嬉しかった?」
「嬉しかった。だって、俺のために弾いてくれたんだろ」
「私ね、誰かのために弾いたの初めてだった」
太宰は話しながら、中也の胸を触る。乳輪を避けてクルクルと手を滑らせた。
「え……? そうなのか?」
「そうだよ。あんなに感情的に弾いたのも、初めてだったよ。シャツ、邪魔だから脱ごうか」
中也が手を上げると太宰は中也が着ているシャツの裾を上に捲って脱がせた。そのままシャツを床に落とす。太宰が中也の胸を見ると、乳首は見て分かる位に勃ち上がっていた。再び胸に手を当てると、先程より鼓動が速くなったように思えた。
「えっちだね、ちゅうや。興奮してる」
「太宰のハジメテ貰ったのか、おれ」
「あははっ、その云い方! 中也のために演奏したいって、自然に思えた。弾いてる時『これも私なんだ』って感じてね、とても気持ちよかった。中也が初めてで良かったよ」
「手前こそ云い方! 俺も、太宰になんか弾きてェな」
「それなら今度の演奏会で弾いてよ。あっ、そういえば私、中也と弾きたい曲があるんだ。その曲を演奏会でやりたい」
「曲はなんだ?」
「ホルストの曲だよ」
「ふたりで弾ける曲、あったか?」
「ふふ、それは明日のお楽しみってことで。ちゅうや、乳首、触っていい?」
「触って」
中也は自ら、太宰の手を胸に導いた。太宰は指の腹で乳首を押し潰すように触る。暫く感触を楽しんだ後、片方の乳首を口に含んだ。口内でころころ転がし、ちゅうと吸いつく。もう片方も同じようにした所で、太宰は唇を離した。そして、唾液でてらてらと光る乳首に再び触れた。今度は滑らせるように擦ってやる。
「や、ンっ」
太宰の指に胸を押し付けて中也は震えた。
「ふふ、軽くイったね」
太宰は中也のズボンに目を向けた。股関の部分は未だに布を押し上げていて、布の上から軽く触れてやると中也が身じろいだ。そして太宰は中也のズボンと下着を脱がせた。下着は先程吐き出された白濁で濡れていた。
「まだ足りないみたいだね?」
「はやく太宰が、ほしい」
「分かったよ。舐めて?」
太宰は手を中也の口元に差し出した。中也は太宰の指を丁寧に舐めていく。そして待ち切れなくなったのか、中也は口内に指を迎え入れた。太宰がいたずらに上顎をくすぐってやると、くぐもった声が漏れ出た。このまま突き入れたい衝動を抑え、太宰は指を引き抜く。「ナカ解すね」と声を掛け、後孔に指を這わせた。中也の後孔は期待にひくついている。中也の反応を嬉しく思いながら、太宰は指を挿入していった。1本目がすんなり入ったので、一気に3本差し入れる。馴染むように浅い所で抜き差しを繰り返した。
「あ、ンっ……おく、ほしい」
「今日の中也のナカ、とろとろだね……っ。かわいい」
太宰は指を深く突き立てた。中也のナカがキュッと締まり、温かい白濁が飛び散った。
「いつもより感じやすい、ね。中也、私をしっかり受け取って?」
「だざい……ぜんぶ、よこせ」
中也の科白にとうとう耐えきれなくなった太宰はベルトを緩め、ジッパーをおろして自身を取り出した。
「ちゅうや、全部あげる。足つく?」
中也を支え、位置を定めてゆっくりと下に降ろしていく。太宰自身を挿入しきってから、中也は脚を太宰の体に絡めた。
「だざい、すき、だ」
「うん。私も」
「ん、デカくなった」
「今日の中也がかわいすぎるんだもの。どうしちゃったの? やけに素直じゃない」
「だざいの側に居れるのが、やっぱりうれし……アっ、だざ」
太宰がいきなり動き始め、中也は驚いた。突然で力が抜けていたのと体位のせいで、いつもより深く中也の体を抉る。
「だざ、いっ、……や、また、いっちゃ……アぁっ」
「ちゅうや」
達した中也の体を抱き締めながら、太宰も熱を吐き出した。
「オイ、そろそろ出るぞ!」
「はーい」
「楽器は2台……、持ってるな」
「流石に楽器は忘れないよ! 衣装も持ったし、楽譜もあるし大丈夫」
そして、演奏会当日が訪れた。中也が目標を達成してから、双黒としては初めての演奏会だ。
「よし。じゃあ、行くか」
中也は車のキーと荷物を持って玄関を出ようとした。
「中也、行ってきますのキスは?」
「はァ? 手前も一緒に出るだろうが」
「してくれないと元気出ないなぁ。ミス連発しちゃって、しまいには頭真っ白になって弾けなくなりそう」
茶化してこう告げる太宰に、中也は「そこまで云うか」と呆れた顔で云いながらも太宰の顔を引き寄せて口付けた。
「ん……、今日は、思いっきり楽しもうね。いつも通りに」
「おう、勿論だ」
ふたりで楽器と荷物を車に積み込み、中也が運転席に乗り込む。太宰は助手席に座った。中也はエンジンをかけ車を発進させる。道は渋滞もなく、スムーズに会場に着いた。
駐車場に車を停めるとふたりは会場のスタッフに挨拶をし、早速楽屋に向かった。荷物を置き、今日の演奏会に出演するメンバーの楽屋の準備をした。今回の演奏会は双黒の演奏だけではないのだ。あの時太宰が「弾きたい」と云った曲は完全なデュオの曲ではなく、管弦楽の曲だった。今回のメイン曲は、「惑星」で有名なホルスト作曲の「2つのヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲op.49」だ。曲名の通りソロヴァイオリンが2パート必要で、太宰がファースト、中也がセカンドを担当する。太宰が演奏会でヴァイオリンを弾くのは、織田が亡くなってから初めてのことだった。織田のことがきっかけでヴァイオリンを辞めてヴィオラに転向したにも関わらず、人前で太宰がヴァイオリンを弾くことに対して中也は当初、不安だった。しかし、太宰は自分がコンクールに挑戦している間、見守ってくれていたのだ。今度は俺の番だと、中也は太宰の要望を受け容れることにした。練習している間中也は今まで以上に太宰の様子を気にかけていたが、時折不安そうな顔をしていた。それでも演奏面に問題はなかったので、無事に今日を迎えたのだった。
今日集まったメンバーひとりひとりに挨拶に行き、お礼を云い、謝礼を渡していった。その中には中島敦も居た。
「敦くん、今日はありがとう」
「これ、今回の謝礼だ。受け取ってくれ」
中也が敦に謝礼が入った袋を渡した。
「太宰さん中也さん、ありがとうございます。僕、今日がとても楽しみで。お二人の後ろで演奏出来るなんて嬉しいです!」
「そうだぞ人虎。太宰さんの後ろで演奏出来ること、有り難く思え」
「芥川!」
敦に向かって言葉を放ったのは、ふたりの後輩である芥川龍之介だった。芥川は太宰の演奏に惚れ込み、音大まで太宰を追ってきた。太宰の演奏会は何があっても聴きに来る、云わば熱狂的なファンだ。今回憧れの太宰と演奏出来ることになり、随分と気合が入っている。中也とは学園祭での演奏がきっかけで知り合った。
「おはよう、芥川君」
「はよ、芥川。お前は相変わらずだな」
「おはようございます太宰さん、中也さん」
「芥川も今回はありがとな」
中也は芥川にも謝礼を渡した。
「芥川君。君の演奏、期待しているよ。今日はよろしくね」
「太宰さんの期待に応えられるよう僕、今日は気合を入れて演奏します!」
「その意気だ。ではふたりとも、また」
敦と芥川から別れたふたりは、協奏曲の指揮を担当する人物の楽屋に赴いた。ドアをノックして応答があったので、ふたりは部屋に足を踏み入れた。
「中也君太宰君、おはよう」
「おはようございます森先生。今日は、よろしくお願いします」
指揮を務めるのは、中也と太宰の師である森鴎外だった。森はかつて、副専攻で指揮も学んでいた。今は演奏や講師業をメインに活動しているが、こうして指揮を依頼されることもある。
「いよいよだね。君たちが奏でる音楽、どう仕上がるか私は楽しみで仕方ないよ。太宰君もまたヴァイオリンを弾いてくれるみたいだし、楽しみしかないね。太宰君から連絡があった時は吃驚したなぁ」
「この曲をやることにした時、私には先生の顔が浮かんだんです。私達のことをよく知っていて適任だと思いますし、実際私達は森先生で良かったと思っています」
「森先生の指揮で演奏する日が来るなんて驚きです。今日はいい演奏になるよう頑張ります。これ、先になりますが今回の謝礼です」
「ありがとう。私も最善を尽くそう。ふたりとも忙しいだろうけど、教室にもまた顔を出してくれると嬉しいな。よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
森の楽屋を出た後暫くして全員で今日の流れを確認し、昼休憩となった。太宰と中也は楽屋で食事を食べた。
「やっぱここの弁当は美味かったな。太宰、いつも聞くけど量足りてるのか?」
「量で云ったら足りてないけど、本番前はあまり食べたくない派なんだよ。中也こそよくそんなに食べるよね。気持ち悪くならない?」
「俺は本番前にしっかり食べて、力を補いたいからな。大丈夫だ」
「ねぇ中也、抱きしめていい?」
太宰が徐に立ち上がった。
「やっぱり、怖いか」
中也から歩み寄って太宰の体を抱き締めた。太宰の腕が中也を大切そうに抱く。その腕は少し震えていた。
「今日の協奏曲、中也とずっと弾きたかったんだよね。でも、ヴァイオリンだからずっと避けてて。やっと弾けそうな気がしたから、やってみようと思ったんだ。練習の時からすっごく楽しかった。時々怖い時もあったけどね。本番前になってふと、正気に戻っちゃったみたい」
中也は抱き締める腕を強くした。
「太宰、俺がついてる。もし太宰が間違えてもなんとかしてみせる。太宰の頭が真っ白になったって大丈夫だ」
「中也それ、いつかの演奏会で私が云ったね」
「覚えてたか。そのまま返すぜ。あの時は俺に余裕がなかったけど、今なら俺にだって云える。舞台の上は独りじゃない」
「頼もしくなったなぁ。そうだね、中也が居るもんね。うん、大丈夫な気がしてきた。でも、もう少しこのままで居させて」
太宰が落ち着く頃には、腕の震えはすっかり収まっていた。
そして、演奏会はいつも通り始まった。まずは双黒の演奏。休憩を挟んだ後、双黒に管弦楽が加わった演奏をする。協奏曲は最後だった。今回の演奏会は、双黒が初めて協奏曲を演奏すると云うことで注目を集めた。特に、太宰が再びヴァイオリンを、それも協奏曲で演奏することは関係者をも驚かせた。
今は休憩中だった。演奏会は始まってしまえばいつも、あっという間に終わってしまう。中也はこれまでにない位の高揚感を感じていた。今日は、太宰との距離がいつも以上に近い気がするのだ。重なり合う音も澄んでいて、綺麗に響いていたと思う。前半を思い出しながらお手洗いに行った後、楽屋に戻ると太宰が出迎えた。
「お帰り」
「ただいま」
「もう半分、終わっちゃったね」
「いつもあっという間だけど、いつもより早く感じるな」
「久しぶりだからかな。私もそう感じるよ。やっぱり、中也と弾くのは楽しいなぁ」
にこにこと機嫌が良さそうな太宰を見て、中也も自然と笑みがこぼれた。
「中也、約束覚えてるよね?」
「勿論だ。ラメントのあのメロディは、太宰に向けて弾く」
中也は太宰に約束をしていたのだ。これから弾く協奏曲に、太宰が大層気に入っているメロディがある。この曲にしたのも、勿論太宰がその曲自体を好きだったこともあるが、中也にこのメロディを弾かせたいからでもあった。中也が「太宰に何か弾きたい」と云ったので丁度良かったのだ。中也はそれを快諾した。
「最終的に、どんな風に弾いてくれるのかなぁ。随分迷ってたみたいだし。練習の度に弾き方変わるんだもの。隣で聴いてるだけで面白くて可愛かった」
「人が苦労してるのに面白がるなよ! 大体からして手前の頼みじゃねェか。あと、可愛いってなんだ」
「もー、そんなに怒らないの。中也が私のために苦労しているんだよ? 可愛くないわけがないじゃない」
「時々俺に対しての感情がマジで変態だよな、お前」
「うーん、まぁ、中也に対しては否定出来ないよね。そろそろ行こうか。おまじない、かけてあげる」
「さっきもかけてもらったぞ?」
「いいの。私がしたいだけだから」
舞台袖に行こうと楽器を持った中也に有無を云わさず、太宰は中也のヴァイオリンと弓に口付けた。
「中也、大丈夫だよ。あとこれは、特別サービス」
まだ楽器を持っていない太宰は、中也の頬に手を添え口付けた。
「ばかやろう、余計に緊張してくるじゃねぇか」
「違うよ中也。君は、私にキスされてドキドキしてるだけで今からの演奏に対して緊張してるわけじゃないよ。それに、私達は今からの演奏が楽しみで仕方ない。これはそういうドキドキだ。そうだろう?」
太宰にそう云われ、中也は心中を確かめた。ひと通り考えてからこう結論づけた。
「……そうだな。最後までよろしくな」
「勿論だよ、相棒」
管弦楽のメンバーが入場した後に中也と太宰は入場した。最後に指揮者の森が入場し、客席に向かってお辞儀をした。森は振り返ると立っていた奏者を座らせた。全体の様子を見ながら落ち着いた頃を見計らい弦楽器のメンバーを見る。それから太宰と中也を見てにっこり笑った。指揮棒を構えると奏者が各々楽器を構えていく。森は「いくよ」と声を出さずに云った。指揮棒を振り上げ、いよいよ曲が始まる。まずは1楽章「スケルツォ」。チェロとコントラバスから入り、バスーンとクラリネットが加わる。そこからさらに木管楽器や弦楽器加わり、ダイナミクスが大きくなる。そこに太宰のソロが力強く加わった。8分音符の、歯切れのよい旋律。程なくして輪唱するように中也も加わった。曲名の通り、この曲はソロヴァイオリンが2パートないと成立しない。双黒が今までやってきた曲と違うのは、「ふたりともソロ」という点だった。2人で演奏していた時は、音楽の構成上、どちらかが伴奏の役割をすることも多かった。今回は旋律を2人、もしくは1人で演奏する部分が大半を占める。太宰と中也は2台で魅せるところはしっかり魅せながら、旋律の受け渡しはスムーズに、1人で弾いているかのように聴かせた。
2楽章は「ラメント」。1楽章から殆ど間を開けずに演奏が始まる。最初は太宰のソロだ。先程とは違い、どこか哀しげで物憂げで、妖しさも感じる旋律が紡がれる。6小節後に中也が加わった。管弦楽はまだ入らない。片方が伸ばしている間にもう片方が動く作りになっているので、必然的に互いの音に意識が向かう。暫くは音の響きを味わわせるような、ゆったりした動きだった。そしてクレッシェンドし、次第に雰囲気が変化していく。太宰の旋律を、中也が奏でる4分音符の動きが高めていく。意思を持っていなかった旋律が意思を持つようだった。ただ音楽が出来るからやっていた太宰が、「中也と一緒に弾きたい」という意志を持つように。それはやがて動きのある旋律になった。不思議な響きで音楽が進んでいき、太宰が待ち望む部分に到達した。太宰と同じ旋律で、調を変えて中也が演奏する。この部分は木管楽器とのユニゾンだった。中也はこのフレーズをどのように演奏するか、ずっと悩んでいた。中也はファーストでもセカンドでもどちらでも良かったが、太宰にこのフレーズを弾いてほしいと云われて今回のパート割りになったのだった。譜読みした時の印象は、「こういうフレーズは太宰の方が似合う」だった。綺麗で、儚さや憂いを感じるこのフレーズは、太宰にこそ合っている。そこで中也は、太宰のイメージに合わせようと弾き方を試行錯誤した。音源を探して参考にしたり、友人や後輩に頼んで弾いてもらったりもした。なかなか自分のイメージと合わないと悩んでいた頃、試しに太宰の真似をしてみることにした。考えてみれば、他の奏者を参考に真似してみることはあったが、太宰を真似ることは今までなかった。高い位置に太宰を捉えていたからかもしれない。1人で練習する時にそれを試してみたら1番イメージに近い演奏が出来た。そこから何度も練習を重ね、理想のフレーズを完成させたのだった。伴奏からきっかり頭を切り替え、軽く息を吸ってから頭のHの音を出す。調が変わり、妖しげな雰囲気も変わった。表れたのは、只管にうつくしい旋律だった。中也はひとつひとつの音を、出だしから音が消えるまで大切に紡いでいく。太宰のように正確に、うつくしく。太宰は隣で聴きながら、あまりのうつくしさにゾワリと鳥肌が立った。中也の演奏は、うつくしさを通り越して神聖な何かを感じさせた。木管楽器とのユニゾンもピッタリ合い、響きに曇りが一切なかった。中也が思う、太宰のイメージが表現されていく。それはそのまま、太宰に対しての想いでもあった。高音域のフレーズも澱みがなく、澄みきった白を連想させた。中也が弾き終わった後は霧がかったような、妖しげな雰囲気に再び変わる。そして、3楽章へ続くヴィオラの音が最後に残った。
最後の3楽章は、2楽章とは打って変わって軽快なリズムが繰り返される構成になっている。太宰のピアニッシモで演奏が始まるが、太宰は先程の中也の演奏を聴き興奮を抑えることに必死だった。理性なんてすぐに吹き飛んでしまいそうだ。まだ曲の序盤で、力いっぱい弾くにはまだ早い。対する中也は曲調も相まり踊っているようだった。ステップは軽やかだ。太宰も一緒に踊りたくなって、音を中也に寄せる。太宰は弾いているうちに楽しくなってきた。中也と演奏するからこそ得られる高揚感だった。中也と演奏していると太宰はいつも、最終的に感情を曝け出すほかなくなってしまう。早くすべて曝け出したいと思いながら、2分の2拍子と4分の3拍子を繰り返していた序盤を過ぎると、更に4分の5拍子と4分の7拍子も加わる。何度も繰り返されるおなじみのフレーズを、管弦楽が演奏しながら太宰と中也は音階を上がったり下がったりしながら自由に駆け回る。旋律が合うところ、片方の動きから引き継ぐところが混在しているが、ふたりにとってはそこが演奏していて楽しい所だった。ふたりの音が交錯し、どちらがどちらの音か分からなくなるくらいに混ざり合っていく。管弦楽の主旋律との絡みの、3連符が続く所は何度も練習した。素速い動きもピッタリ合わせ、弾ききる。ここまで来ると、太宰も自分の感情が自然と出るようになっていた。次々と溢れてくる感情。中也と演奏するのは、これだからやめられないのだ。今度は主旋律を弾いていく。この先は2楽章の旋律だった。中也に弾いて欲しかった旋律とはまた別だったが、綺麗な演奏を聴いた後だったので神経を最大限使い、中也にお返しするつもりで演奏した。1楽章のフレーズも登場し、曲の最後に向けて徐々に盛り上がっていく。クレッシェンドをして、曲は最高潮を迎える。中也が先に3連符を弾き、後から太宰も力いっぱい3連符を弾いた。勢いを殺さず、その後のロングトーンも弾ききった。残るはトゥッティで、ふたりとも管弦楽と一緒に全力で弾く。そして最後の4分音符がホールに響き渡る。余韻が消えるまで待ってから森は指揮棒を下ろした。客席からはすぐに溢れんばかりの拍手が鳴り出した。森が客席に向いて太宰と中也の方に手を向けると、拍手が更に大きくなった。ふたりは揃ってお辞儀をする。太宰は楽器を持ったまま腕を広げて中也を抱擁した。いつもは軽いハグで済ませているが、今回限りは我慢出来なかった。中也は少し驚いたものの、楽器を持っていることもあり、されるがままになっていた。そして太宰は興奮が冷めないまま、勢いで中也の額に口付けた。中也は一瞬何が起こったか分からなかったが、すぐにされたことを理解してボっと顔が熱くなった。太宰はにこにこと微笑んでいた。ここが未だに舞台上ということもありどうしていいか分からなくなった所を、森が管弦楽のメンバーを立たせたことで切り抜けた。拍手が続いている中、ふたりと森と奏者は順に退場した。
拍手が鳴り止まず、その後双黒でアンコールをし、更に管弦楽のメンバーともアンコールをした。そしてふたりの演奏会は幕を閉じた。楽屋に戻って早速、中也は太宰を問い詰めた。
「なんで、人前でキスしたんだよ?! 吃驚したじゃねぇか!」
「だって、中也が可愛かったんだもん。ほんとはいつもしたいの、我慢してたのにさ、あんな演奏しちゃうから。私以外に聴かせたくなくなるくらい、綺麗だったよ」
「そう、か。それなら良かった」
中也はほっと胸をなでおろした。
「また、ぎゅってしたい」
「はいはい、わかったわかった」
中也はクロスで拭いていた楽器をケースにしまい、両腕を広げた。太宰は嬉しそうに中也を抱き締める。
「ねぇあの演奏、誰を参考にしたの? いつもの中也とはちょっと違う感じがしたんだけど」
「え、あ、それは」
中也は素直に答えようとしたが、それが目の前にいる太宰ということに気付いて言葉を詰まらせた。急に恥ずかしくなったのだ。
「なぁに? 私に云えないような人なの? 森先生とか?」
「ち、ちがう」
「じゃあ、誰なのさ」
「だざ、い」
とても小さな声で中也は云った。
「え、何て云った?」
「太宰、だよ」
顔を真っ赤にしながら、さっきよりも大きな声で太宰の名を口にした。
「私?」
「そうだよ、悪ぃかよ」
「悪いわけないじゃないか! それであの演奏が? すごいな。嬉しいよ」
流石私の中也、と太宰は抱き締める腕を強くする。中也も太宰にそう云われると嬉しくて、ぽつりと話し始めた。
「あのフレーズは、太宰の方が似合うなって思ったんだ。あと、太宰に弾くんだから丁度いいなって」
「鳥肌が立つくらい、綺麗だった。ありがとう、中也。ねぇ、私の演奏はどんなイメージ?」
「洗練されていてうつくしいんだ。音程もリズムも正確で、澱みなく透明。太宰の演奏は、俺の中で一番綺麗だ」
それを聞いた太宰は、ぱぁっと笑顔になった。
「中也、そういう風に思っていてくれたんだ。うふふ、嬉しい。にやにやしちゃう」
「おい、まだみんなで写真撮るんだから顔は引き締めろよ」
中也がそう云った時、丁度ドアをノックする音が聞こえた。太宰の腕を解き返事をすると、入ってきたのは森だった。
「森先生! お疲れ様でした」
「中也君も太宰君もお疲れ様。演奏、とてもよかったよ。太宰君、中也君をあまり困らせては駄目だよ?」
「困らせるつもりはなかったんです。中也があまりに可愛いすぎるのがいけないんですよ」
「君達がここまで仲良くなっているとはねぇ」
「それで森先生、私達に用があるのでは?」
「集合写真を撮るから、そろそろ集まってほしいそうだよ」
「分かりました。私の楽器を片付けたらすぐ行きます」
「早く来るんだよ?」
「わかってますって」
森は楽屋を出ていき、楽屋は再びふたりだけの空間になった。
「早く行こうぜ」
「うん、もうちょっと待って……よし」
太宰は楽器を片付けると、再び中也を抱き締めた。
「太宰、どうした? 写真撮りに行……っん、ハ、だざ」
太宰はいきなり中也に口付けた。戯れに触れるだけの口付けではなく、深い口付けだった。太宰は中也の口内をじっくり味わうと、名残惜しそうに唇を離した。荒々しい口付けに、太宰自身も息が上がっていた。
「今日の中也、ほんとに格好良くて綺麗だった。私は中也をどんどん好きになっていくけれど、みんなも中也を好きになっていくんだ。誰にも見せたくないし、早くみんなと別れて独り占めしたい。好きだよ、だいすき」
興奮が抑えきれないとばかりに太宰はまくしたてた。
「ちゃんと分かってる。そうでなきゃ、太宰があんなに情熱的に演奏なんてしないし、気持ちをたくさん伝えてくれることもないだろうからな。手前の場合、俺が他の奴と、たとえオケでも演奏するのに反対したい気持ちもあったんだろう。それでも自由にさせてくれたのは、太宰の優しさだと俺は思ってる。……少しは落ち着いたか?」
中也は太宰の背を優しく撫でる。暫くそうしていると、太宰の呼吸は穏やかになっていった。
「……うん。いきなりごめん、ありがと。行こっか」
「俺も太宰のこと、ちゃんと好きなんだからな」
太宰と中也が舞台に行くと、既に他のメンバーは揃っていた。
「あっ、太宰さんに中也さん!」
「やっと来たね」
「スマン、待たせた」
「じゃあ、お願いします」
太宰が来てもらっていたスタッフに頼むと、スタッフはカメラを構えた。
「お二人は真ん中ですね」
太宰と中也を中央に、他のメンバーが並んでいった。
「みんな入ってる?」
「隅にいらっしゃる方が切れてるので、みなさん少し詰めてください」
全員が少しずつ詰める中、中也は太宰に話し掛けた。
「太宰、もう少し詰めろよ」
「うん」
中也は詰めてきた太宰の左手に自分の右手を絡ませた。離さないとばかりに恋人繋ぎをする。
「もう、君って人は……!」
「見切れて見えないだろうけどな。ずっとよろしく、相棒」
「私こそもう離さないんだからね、相棒」
ヒソヒソと小さな声でやり取りしていると、「では行きますよ」とシャッターを切る案内が聞こえてきた。カウントダウンの後に、今日の演奏会の思い出が切り取られた。
出来上がった写真にはオーケストラの面々と一緒に、幸せそうなふたりの笑顔が写っていた。