10.おやすみのうた

 ――――これは、ある演奏会の前夜のお話。

 本番前最後の練習を終え、ふたりは自宅に戻った。夕食を食べ、風呂にも入り、歯磨きもした。明日に備えて今日は早めに寝ようと、ふたり揃って寝室へ向かう。そこには、ロングサイズのシングルベッドが2台並んでいた。ベッドの間には隙間パッドが挟んであり、シーツは2台分の大きさのため1台のベッドのように見える。以前は中也が一人暮らししていた頃から使っていたベッドで寄り添いながら眠っていたが、引っ越した際に買い替えたのだった。ベッドは広くなったが、いつもぬくもりが恋しくて結局真ん中に身を寄せ合ってしまう。中央にごろりと寝転び、ふたりは天井を見上げた。少しの間目を瞑ることもなくただぼーっとしていたが、沈黙を破って中也が口を開いた。
「いよいよ明日、だな」
「そうだね」
「明日も、よろしくな」
「何をいきなり云い出すんだい。勿論さ」
「なんか、今から緊張してきたぜ」
「君らしくもない。いつも通りでいいんだよ」
「……そうだな。おやすみ、太宰」
「おやすみ、中也」

 暫く経っても、中也は寝付けなかった。隣の太宰を見やると、目を瞑っている。もう寝てしまったのだろうか。
「……太宰、起きてるか?」
 太宰の方に体を向け、そっと呼び掛けてみる。
「……起きてるよ」
 太宰も中也の方に体を向けた。
「なぁ、寝れないんだ。演奏が楽しみすぎて」
「私もだよ。興奮してるみたいで寝付けない」
「遠足前の小学生かってンだよ……」
「ほんと、そうだよね。ふたりして眠れないなんて」
「このまま眠れないなんて、御免だぞ」
「いっそ、セックスでもしてみる?」
「それは遠慮しとくぜ」
「でも、このままじゃ寝れなくない?」
「それはそうだがよ。明日に絶対響くから、嫌だ」
「優しくするって云っても?」
「手前は何だかんだでいつも優しいだろ。充分だよ。それに、今ヤったら、」
「なぁに?」
「きっと、身体の奥まで求めちまうから……。明日に、この熱情はとっておきたくてな」
「そこまで云うなら止めておくよ。でも、キスだけさせて。そんなこと云われたら、本当は全力で抱きたいけど、我慢しよう」
「キスだけなら、いいぜ」
 お互い横を向きながらも顔を近づけ、ちゅ、と口付けた。足りなかったのか、太宰がもう一度後追いで口付ける。
「……じゃあ、子守歌を歌ってよ」
「子守歌?」
「うん。君の声を聴きながらなら、眠れる気がするんだ」
「で、俺はどうなるんだよ」
「え? 自分で何とかして」
「おい、それ俺にメリットねェじゃねぇか」
「うーん、私の寝顔が見れるよ?」
「……」
「駄目?」
「仕方ねェ、歌ってやるよ」
 すると太宰は中也の顔を引き寄せ、額同士をコツンと合わせた。吐息がかかるくらいの距離だ。
「近くねェか?」
「うふふ、特等席で聴きたいから」
「分かったよ。じゃあ、歌うぞ」

 ――――ねむれ ねむれ 母の胸に

 中也が歌い始めたのは、「シューベルトの子守唄」だった。緩やかな旋律を囁くように、優しく歌う。いつもの口調とは裏腹に、その歌声は繊細で儚げで、そしてどこか甘い。太宰は暫く歌声を堪能していたが、だんだん、だんだんと眠たくなってきた。碧い瞳を見つめながら、心地よい気分で眠りに落ちていくのであった。

 ――――本当に寝ちまった。
 中也は太宰が目を閉じてからも本当に眠ったかどうか分からず、暫くの間歌っていた。寝息が聞こえてきて初めて、太宰が本当に眠ったのだと分かった。歌うのを止め、太宰の寝顔を見つめる。相変わらず、きれいな顔をしている。太宰は穏やかに眠っていた。起こさないようにそっと頬に手をあて、慈しむようにスッとなぞる。安心しきった太宰の表情を見ていたら、何だか自分まで眠たくなってきた。
 ここでふと考えが過った。もしかしたら、太宰も緊張しているのかもしれない。目に見えない緊張が自分にも伝わってきて、自分も眠れなかったのかもしれない。そして、それが分かるのは自分だけなのではないか。自惚れるのもいい加減にしろ、と思いたい所だ。しかし、そう思うと太宰に近付いた気がして、寄り添えた気がした。太宰の隣に、ずっと立っていたい。
 そんなことを考えながら、いよいよ目蓋が重くなってきた。最後にひとつ、悪足掻きをしてやろう。
「……おやすみ、だざい」
 中也はそっと囁くと、薄い唇にゆっくりと口付けた。今夜は、いい夢を見れそうだ。そして中也も、意識を手放した。
 ふたりの寝息だけが、部屋に響いていた。

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