6.はなうた

 ―――太宰はゴシゴシと、バスタブを洗っていた。

 今日の太宰はすこぶる機嫌が良い。その証拠にベートーヴェンの交響曲、第7番の1楽章の旋律を口ずさんでいる。スポンジを泡立て、汚れが溜まりやすい丸みをおびた角もしっかり洗う。バスタブの内壁も外壁も、栓のまわりも、栓がつながっているチェーンもくまなく掃除していった。ピカピカになったらバスタブの中から外に移動して、スポンジをシャワーに持ち替え、泡を流し始めた。流し残しがないよう、手で感触を確かめながら泡を流す。風呂場の床や小物は、既に洗ってあった。最後の確認にと、バスタブに右手の人差し指をあて上下にスライドさせると、キュキュ、と音が鳴った。完璧である。栓をして給湯器のボタンを押せば、風呂の準備はほぼ出来上がったも同然だ。
 風呂が沸く間に、食事の準備を始める。いつも食卓を共にする相棒兼恋人は居ない。今夜が演奏会の本番だからだ。相も変わらず、中也はアンサンブルのメンバーによく誘われる。本当は他の奴となんか演奏して欲しくない。しかし、その経験が成長させる糧になることを知っているし、何より我が相棒は必ず自分のもとへ帰ってくると太宰は確信しているのだ。中也と本当の意味で演奏出来るのは、私だけ。それだけの自信があったし、絶対に譲れない部分でもあった。今日の演奏会も、きっと素敵なものになるだろう。私の相棒が居るのだから。
 いつもは中也が食事の支度をしてくれるのだが、今日はそんな暇がなかった。かといって自分で料理をする気にはなれない。だから、出来合いのものを買ってきた。おかずやご飯を次々と電子レンジに入れ、温める。一人暮らしの時は食事に対して興味がなく、一週間ずっと蟹缶だったこともあった。中也と一緒に暮らし始めてやっと、栄養バランスにも少しは気が向くようになった。何せ中也の手料理は、彩りが良いのだ。そして何より美味い。実は作り置きがあったのだが、最近忙しくて食べきってしまった。
 秋という季節はどうしても忙しくなる。文化の秋とはよく云ったものだ。本番の数はどの季節よりも多い。本番が増えれば練習も必然的に増える。ここ最近は練習会場から練習会場への移動、たまに本番、たまに打ち上げ、そしてまた練習の日々だ。家に帰ったらもうクタクタで、夕食と風呂に入り最低限のことを済ませて寝る。ふたりはずっと一緒に活動しているわけではない。双黒としての活動だけで食べていけるほど、音楽家は甘くないのだ。
 というわけで、最近中也となかなか一緒に居る時間がなかった。そろそろ寂しい。出来合いのご飯を食べながら、太宰は思った。電子レンジで温めたご飯は勿論温かいけれど、何だか物足りなく感じた。
 食事が済んだら皿を洗う。次に、沸かしていた風呂の様子を確認した。きれいに掃除したおかげで、澄み切った湯船が窺える。そこに入浴剤を入れた。中也がお気に入りの、シトラス系の香りだ。
 後は中也本人を待つだけである。食後のコーヒーを飲みながら、今度中也と演奏する予定の参考音源を聴く。秋はお互い忙しくなることを予定して、敢えて演奏会の時期を春にしたのだ。あぁでも、こんなに寂しい思いをするなら、無理矢理秋に持ってきても良かったかもしれない。そんなことを思いながら中也との演奏に思いを馳せていると、玄関からガチャガチャと音が聞こえてきた。待ち人来たれり。すぐさま玄関へと向かった。
「ただいまァー」
 待ち焦がれた相棒の姿がそこにはあった。
「おかえり」
 久しぶりに彼に触れたくて、駆け寄ってその小柄な身体を抱き締める。中也も嫌がることはせず、大人しく抱き締められていた。
「今日の演奏は楽しかったかい?」
「あァ、楽しかった。……でもやっぱり、太宰との演奏が一番楽しいよ、俺は」
 そういうと中也は腕を太宰の背中へまわし、ギュッと抱き締め返した。太宰は心が幸福感で満たされていくのを感じた。自然と目が合って、どちらからともなくキスをする。ちゅ、と少し触れ合っただけでは全然足りなくて、太宰は背中に回していた手を頬に添え、すべてを奪うように口付けた。
「ン……、」
「ちゅうや……、ちゅうや」
 愛しい中也の名前を呼びながら口付けは続く。唇の感触を確かめるように唇を食む。あぁ、この感触だ。角度を変えながらふにふにした柔らかさを楽しむ。中也の唇を舌先でペロリと舐めると、唇が少し開いたので舌を入れ込んだ。口内を味わうようにゆっくり舐めまわし、互いの舌を絡ませる。くちゅくちゅと水音が玄関に響き渡る。ここで太宰は思い出した。風呂に入ってもらわねばならない。ちゅっと音を立てて名残惜しげに唇を離した。
「だざい……?」
 中也はキスのせいで半分とろけた瞳で見つめてくる。いつもの太宰なら、我慢できないだろう。これも相棒のため、自分のため。
「中也、疲れたでしょう? お風呂沸かしたから入ってきなよ」
「……最近ごめんな。いつも風呂沸かしてくれるし、料理も作ってやれねェで」
「中也も忙しいんだから、そんなこと気にしなくていいよ。洗濯とかはやってもらってるし」
 ゆっくり入ってきなよ、と後押しすると中也は荷物を置き、着替えの準備をして風呂場に入っていった。

 中也が身体や髪を洗い終わり湯船につかる頃、太宰は脱衣所への引き戸をほんの少しだけ開けた。そして、戸の前に座り込む。これで、スタンバイ完了だ。暫くすると、風呂場から旋律が聴こえてきた。中也が鼻歌を歌っているのだ。太宰は中也の鼻歌を聴くために風呂を沸かしていたのだ。最初は中也が風呂の中で鼻歌を歌っているなんて知らなかった。ある日、たまたま中也が風呂に入っている時トイレに行こうとすると、風呂場から鼻歌が聴こえてきたのだ。それがきっかけで中也の鼻歌が気になりだした。それから中也が風呂に入る時は、こうしてこっそり鼻歌を聴くことにしている。湯船につかると大概中也は歌いだすのだ。それはジャズだったりクラシックだったり、最近流行りの曲だったり、合唱曲だったりする。これだけ幅が広いことが分かってきたので、余計に観察をやめられなくなってしまった。今日の鼻歌の曲は、どうやら「亡き王女のためのパヴァーヌ」らしい。静まり返った風呂場の中に、うつくしく憂いを帯びた旋律が響いている。実は、太宰は中也の声が好きでたまらない。今日はいっとううつくしい声が聴けてとても満足だ。旋律と声のうつくしさに、ぞわぞわと鳥肌がたった。もっと近くで聴きたい。そう思ったらもう身体が勝手に動いていた。そっと戸を開け、風呂場への扉に近づく。
「…太宰?どうした?」
 流石にばれてしまったようだ。
「湯加減はどうかなと思って」
 太宰はこっそり聴いていることがばれたらもう歌ってくれないと思い、適当にはぐらかした。
「あぁ、ちょうどいいぜ。香りも俺好みだし。ありがとな」
「それは準備した甲斐があったよ」
「なァ太宰、一緒に入らねぇか?」
「いきなりどうしたの?」
「最近俺がいつも一番風呂だなぁと思って。もう入っちまったけど。……駄目か?」
「ふふ、君の頼みなら仕方ないね。ちょっと待ってて。着替え持ってくる」

 太宰は着替えを持ってくると、服を脱ぎ、風呂場の扉を開けた。椅子に腰かけ、身体と髪を先に洗う。その後中也を後ろから抱き締めるようにして湯船につかった。そこまで大きくないバスタブから湯がじゃばぁとあふれ出る。中也にもたれてもいいと告げると、肩にコテンと頭をもたせかけられた。中也の腹あたりで手を組み、リラックスする。男ふたりにこのバスタブは狭いが、久々に恋人のぬくもりを感じるには丁度良かった。暫くの間何もしゃべらずに沈黙を味わっていたが、静寂は突然消えた。中也が鼻歌を歌い始めたのだ。曲は先程と同じ「亡き王女のためのパヴァーヌ」。太宰はまさか歌ってもらえるとは思っておらず、密かに飛び上がった。ドアを隔てないで直接耳に流れ込んでくる旋律は、ため息が漏れるほどうつくしかった。風呂場がまるで小さなホールのようだ。中也が風呂場で歌いたくなる理由が分かった気がした。ホールみたいに響いて、心地よいのだ。それが分かると、太宰も一緒に歌いたくなってきた。入るタイミングを考えて、そっと入った。中也は一瞬ビクりと震えたがそのまま歌い続けた。声が重なる。中也のバスタブの淵にあずけていた腕が離れて、その指が太宰の手に触れた。そのまま互いの指をきゅっと絡める。壁に反響して返ってくる音は、湯船をもゆらすようだ。振動を感じながらふたりとも目を瞑り、そっとゆるやかに音の世界を楽しむのだった。

目次