16.今日も、一輪の花を

 ダイニングテーブルの上には、いつも一輪挿しの花瓶が置いてある。元々俺は花を飾る習慣なんてなかった。マフィアに加入して姐さんの部隊に配属が決まり、ある日、姐さんが俺の部屋に書類を渡しに来た時だった。上司が来たのだから茶の一杯でも出さねばと思い、姐さんを部屋に案内した。
「こんな部屋ですが……。今茶を持ってきます」
「気を遣わせてすまぬのぅ」
「いえ。緑茶で良かったですか?」
「大丈夫じゃ」
 当時はマフィアの構成員が住むマンションに住んでいた。部屋は1K。収納用にロフトがあり、トイレと風呂は別になっていた。最低限のモノしか置いておらず、とても殺風景で、生活感のない部屋だったと思う。
 ヤカンすら購入していなかったので、鍋で湯を沸かし、緑茶を淹れた。
「尾崎幹部の口に合うかは分かりませんが、どうぞ」
「そこまで気にしておらぬ。もてなしてくれただけでも充分じゃ。じゃがのう……」
 部屋を見渡して、何か云いたげな姐さんを見て当時の俺は少し焦った。何かマズいことをしてしまったのではないかと思い、原因が何なのか即座に考えた。
「あっ、すみません。茶菓子は今切らしていて。時間さえ良ければ買ってきます」
 茶といえば菓子がつきものだ。疲れていない時に自炊はしていたものの、間食する程の時間的余裕はなく、菓子類は家になかった。
「違う、そうではない。中也や、お主、本当にここに住んでおるのか?」
「え? はい、住んでいますが」
 姐さんはもう一度部屋をゆっくり見渡すと、口を開いた。
「なんだか殺風景じゃの。この部屋に、愛着は持てそうかえ?」
 愛着か。何故姐さんはそんなことを聞くのだろうと思った。太宰のせいでマフィアに入ることになったものの、俺はもう、この組織に忠誠を誓うと決めたのだ。これから組織に対する愛着はきっと大きくなっていくのだろうが、自分のこととなると、どうにも大切にする気が湧かなかった。何せ自分は単なる荒覇吐の器であり、人間ではないかもしれないからだ。そんな自分を、俺は認められずにいた。だからこの部屋は、ただ休むための部屋であり、人間らしい営みをする場所ではない。故に、最低限のモノ以外は必要ない。愛着も、残念ながら持てそうになかった。
「すみません。住む場所があるだけ有り難いとは思うのですが、今は……」
「そうか。ならば、妾からプレゼントをしよう」
 殺風景だからと云って、最低限のモノは揃っているので困ってはいない。姐さんから何かを贈られてしまうと大切に扱わなければいけなくなる。無駄なモノが増えて、面倒になるかもしれない。
「いえ、心遣いは嬉しいのですが、俺には勿体ないですし」
「分かった、ならばこれは命令じゃ。受け取ってくれるな?」
 命令してまで贈りたいモノって一体何なのだろうか。もし動物でも贈られてしまったら、俺は正直面倒を見きれそうにない。
「……はい。命令でしたら」
「よいよい。では、早速持って来させる」
 その場で姐さんは部下に連絡し、俺への贈り物を持って来るよう指示を出した。暫くすると、インターホンが鳴ったのでドアを開けた。
「尾崎幹部から中原さんにです」
 渡されたのは、ガラス製の一輪挿し用花瓶と新聞紙に包まれた一輪の白百合だった。未だ状況をよく飲み込めていないが、これがプレゼントなのだろう。受け取るしかない。俺がしっかり受け取ったのを姐さんの部下は見届け、会釈をして去っていった。俺は百合と花瓶を持って姐さんの所に戻った。
「あの、これは」
「中也、花を飾ると良い。一輪挿しなら手入れもしやすい。花がある生活は、なかなか良いと思うのじゃ」
「はぁ」
「妾の屋敷に花がある。百合が枯れてしまったら来ると良い」
 どうして花を飾るように命令したのか、どうやら姐さんは教える気がないようだった。姐さんのことだ、きっと、やってみた方が早いのだろう。
「わかりました」
 一応上司の命令なのだ。俺は今からこの花をできるだけ長持ちさせて、枯れたら次の花を貰いに行かなければならない。これをきっかけに、花との生活は始まった。

 1Kの簡素な部屋のため、花瓶を置くのは食事や事務作業をするための机の上しかなかった。なので、目に入る機会は多かった。正直気乗りしていなかったものの、花をどことなく見る度に、俺の心境は変わっていった。小さな同居人が増えたみたいで、食事をしている時も、事務仕事をしている時も、見守ってくれているような気がした。そうやって暮らすうちに、帰ってきた時に花瓶が見えると「家に帰ってきたのだな」とほっとするようになった。花のおかげで家に対して、愛着が生まれたのだ。最初こそ水をこまめに変えていなかったので長持ちしなかったが、今ではこまめに水を交換し、食器用洗剤をほんの数滴入れて水を綺麗に保ち、長持ちするようになった。他のインテリアを増やそうとは思わなかったが、花だけは欠かさず飾るようになった。幹部になり、引っ越しする頃には自分で飾りたい花を選び、花瓶も何種類か購入していた。
 太宰が居候してきても、この習慣は変わらなかった。ただ、今まで好きに飾っていたのに、何となく花言葉を気にするようになってしまった。今日飾る花は、赤いゼラニウムだ。花言葉は「君ありて幸福」。今の俺は、なかなかに幸せだと思う。隣に人――太宰が居るあたたかさを知ってしまった。マフィアとは思えないくらいに生温い日常を過ごしていて、そしてそれが、壊れて欲しくないと願っている。
 丁寧に生けたゼラニウムの花瓶を、今日もダイニングテーブルに飾る。照れくさくてなかなか伝えられない言葉が、どうか伝わるようにと想いを込めた。


 中也の家のダイニングテーブルには、いつも花が飾ってある。梅や桜、紫陽花など、季節に合わせて飾ることが多いけれども、今は違うみたいだ。赤のゼラニウム、か。中也は私と一緒に暮らして、幸せに思ってくれているらしい。素直に嬉しく感じる自分が居て、自分も少しは人間らしくなったなぁと思う。
 人間は恐ろしいものだ。欲望を達成するために、あらゆる手段を利用する。それが良いことに対してだろうが、悪いことに対してだろうが、最終的に「生きる」ために人は動き、力を発揮する。その必死な様子がどうにも恐ろしく感じてしまって、私は道化の仮面を被り、人の行動を読んできた。飄々としているように見えても、自分の身を守るために私は必死なのだ。でも、常に私は矛盾している。この必死な行いは、「生きる」ということだから。私も恐ろしい人間のひとりなのだ。その逃れられない事実から逃げたくて仕方なくて、私は自殺を試みるのだ。いつも失敗するのだけれど。
 中也の前で私は仮面を、剥がさざるを得ない。出逢った時から、中也はいかにも「生きている」という感じで虫酸が走った。どうしようもない、怒りのような感情。その怒りには抗えなくて、中也とだけはそのままの私で居ることが多かったかもしれない。少なくとも、マフィアに居る頃はそうだった。
 では、今は? 一緒に暮らすようになると、仮面を外している状態が長くなってきたのだろう。知ってはいたけれども、中也は優しいのだ。私が嫌がらせをやめたら恐ろしいくらいに、甘い蜜みたいな存在になってしまった。私は蜂なのかもしれない。甘い優しさに触れて、とうとう私は中也を手放せなくなってしまった。「中也」という花にずっと寄り添い、甘い蜜を吸い続けるのだ。

 ゼラニウムの元気がなくなってきたので、そろそろ別の花を生ける時期だ。珍しく私は花を買ってきた。一輪の赤い薔薇。私にはもう中也しか居ないのだから、これはぴったりだろう。綺麗な赤い花弁に口付けて、私はそっと薔薇を飾った。

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