6.皐月


 太宰が俺の家に居候し始めて5ヶ月目。今はゴールデンウィークだ。
 ついこの間、太宰から初めて誕生日プレゼントをもらった。一輪のカーネーションと堅豆腐。何かイタズラでも仕掛けてくるのかと思ったがそんなことはなく、ただただ普通のプレゼントだった。今の立場だからこそできるのかもしれない。あの時はお互い、昇進を急いでいたから。俺は兎も角、太宰の奴は俺より先に昇進したいだけだったのかもしれない。今は張り合う必要がないのだ。ちょっかいを掛けてくるのは太宰だったので、その太宰が特に何もしないのであれば、俺だって何もしない。最初はどうなるかと思ったが、案外平和に過ごせているのもそのおかげだろう。
 プレゼントにもらった堅豆腐はすぐになくなってしまったが、月イチで作ってもらう約束をしたのでまた食べられる。あんなに美味い堅豆腐を食べるのは初めてだった。カーネーションも、毎日花瓶の水を交換して、まだ綺麗に咲いてくれている。いずれは枯れてしまうが、嬉しかった気持ちはずっと覚えていたい。
 そう、俺は太宰からプレゼントを贈られて、とても嬉しかったのだ。気持ちを抑えることができなくて、太宰の前でみっともなく泣いてしまった。甘えることが苦手で、ましてや太宰に甘えるなんて思いもしなかったが、太宰は気持ち悪がるわけでもなく俺を受け入れてくれた。特に夜、ふたりで眠る時に甘えてしまう。太宰はいつも優しく俺を抱き寄せてくれて、それに俺は安心してしまうのだ。おかげでよく眠れる気がする。疲れている時は背中を撫でてくれる。もちろん首領は俺の働きを正しく評価してくださるが、それとはまた違う感覚だった。あたたかい気持ちを太宰からは感じる。俺を慈しむような。これがきっと「埋め合わせ」という奴なんだろう。
 太宰は突然、俺にも何も伝えずにマフィアを出奔した。いつ何をしでかすか分からない奴ではあったが、俺にくらい教えてくれても良かったのに。勿論秘密を漏らす気はないし、別にその後「太宰の相棒だった」という理由で拷問されても俺は構わなかった。本当に何も知らなかったから、俺は暫く姐さんのもとで謹慎するだけで済んでしまった。太宰の僅かばかりの思いやりだったんだろうか。
 ただ、太宰が居なくなって少しばかり張り合いがなくなったのは確かだった。何かと俺にちょっかいを掛けてくる奴だったから、色々と物事がスムーズに進むようになった。たまに奴が仕掛けていたと思しき問題もあったが、本物の面倒くささには敵わなかった。太宰をその度に思い出して忘れることさえ許されず、顔を思い出してはムカつき、ほんの少し寂しく感じていた。
 だからこの生活がその時の「埋め合わせ」と云うのなら、俺は満足してしまっていた。何せ、いつもここに帰ってくるのだ。俺が作った弁当を平らげて、空っぽになった弁当箱と一緒に。張り合う必要がないから、それがさも当たり前かのように一緒に買い物をして、花見にも行った。
 普通の日々を太宰と過ごせることが、俺は、思った以上に気に入っているらしかった。

 今日は天気がいいから、洗車でもしようと思う。幹部ともなると迎えの車を呼べるのだが、車やバイクに乗るのは好きなのでたまにしか迎えは呼ばない。普段乗るので、点検もしっかり半年毎に行っている。いつもは時間がないので、洗車はマフィアの車をメンテナンスしてもらっている業者に、個人的に頼んでしてもらっている。だから、たまの休みに時間に余裕がある時くらい、自分の車を手入れしてやりたかった。
「中也、今日はなんかするの?」
 今日は休みだから、俺も目が覚めてから体を起こさずに、布団の中でゴロゴロしていた。太宰が話掛けてきたので、太宰の方に体を向ける。
「天気がいいから、洗車日和だなと思って」
「洗車するの?」
「おう。朝メシ食ってから」
「もうちょっと寝ていようよ、休みだし。ブランチでいいでしょ」
 もうひと眠りしよう、と云って太宰は俺を抱き寄せてきた。太宰の胸元に顔を寄せると、いつものように太宰の匂いがして、あたたかかった。
「だざ、い」
 あれ、疲れていたんだろうか。目蓋が段々重くなっていく。
「たまの長期休暇くらい、ゆっくりしなよ。今、君は君が思っている以上に疲れてるの。洗車は次起きたらね」
「ん……」
 太宰のぬくもりに包まれながら、俺は再び眠りに落ちた。眠りに落ちる直前、頭に柔らかい感触を感じた。


 再び目覚めると、俺たちは先程の体勢のままだった。太宰の胸元から顔を離し、太宰の顔をぼーっと見つめる。
「だ、ざい」
「おはよう、中也。気持ちよさそうに寝てたね」
 太宰はあまりにも穏やかな表情だった。にこ、と微笑むこんな表情、今まで見たことがあっただろうか。気付けば俺は太宰の首に片腕を伸ばし、片手を半ば無理矢理な体勢で頬に添え、口付けていた。唇の感触をなんとなく感じながら、2、3秒で唇を離した。
「……キスしたかったの?」
「なんか、手前が優しい顔してるなって思って。そしたら思わず……。嫌だったか?」
「ううん。だって、最初にしたのは私じゃない」
「あぁ、それは確かに」
 あの時の口付けは予想外だったが、驚いたことに、口付けされたことに対して嫌悪感はなかった。太宰が離反した時にどこか裏切られた気持ちもあったから、今太宰と過ごしていて、傷が少しずつ癒えていく感覚がある。口付けされて、自分が見放されたわけではないと分かったから、むしろ安心したのだ。
「私、そんな表情してたんだね」
「居場所が変わっちまったから変わったんだな、きっと。マフィアを抜けて、手前にとってはそれが良かったんだろうぜ」
「確かに立場は変わったけど違うよ。中也だからだよ」
「そうなのか?」
「そうだよ。うふふ、中也がキスしてくれて嬉しいな。気を許してくれたと云うか、中也にまた一歩近づけたと云うか。今まで入れてもらえなかった所に入れてもらえた気がする」
「手前こそ」
 俺は太宰が低血圧で朝が苦手ということも知らなかったし、包丁が恐ろしい程使えないことも知らなかった。そして、俺に対して案外優しいということも。俺が知らなかった太宰の姿を、これからまた見つけていきたい。
「ねぇ、洗車一緒にするから蟹チャーハンの蟹多めにしてよ」
「傷つけたら許さねェぞ」
 彼奴はきっと、俺の心の変化に気付いている。俺は太宰と一緒に洗車をしたことがない。もしかしたら、何か新しい太宰を発見できるかもしれない。それに気付いているから、交渉してきたのだろう。分かってはいるが、まったくズルい奴だ。


「で、どっちから洗うの?」
「クラブマンからだな。デカいし」
 俺は車を2台持っている。MINIのClubmanと、MAZDAのROADSTERだ。車庫から赤のロードスターを出して、黒のクラブマンを洗いやすいように車庫の真ん中に駐車し直した。そして、ホースやバケツ、洗車用の洗剤、スポンジなどを物置から取り出した。バケツに水を汲み、スポンジを2つ濡らして洗剤をつける。泡にまみれたスポンジを太宰に渡した。スポンジで洗う前に、車全体を水で濡らしていく。
「ねぇ、車そんなに汚れてなくない?」
「汚れてるだろ。ちょっと砂埃が目立つ」
「蟹多めになるならまぁいいけど。あ、私天井やってあげる。中也届かないでしょ」
「む……」
 いつも台があると云えど、天井はどうしても洗いにくい。太宰の身長で台に乗れば、真ん中まで綺麗に洗えるはずだ。愛車が綺麗になるならと思い、俺は太宰に天井を洗ってもらった。
「マフィアの幹部なんだから、もっといい車乗ってるかと思ってたよ。それこそポルシェとかランボルギーニとかさ」
「どこかの誰かさんが爆弾を仕掛けてオジャンにしちまったからな。アレが一番高かった。納車してすぐだったんだぜ。俺は学習したんだ」
「まぁ、知ってたけど。じゃないと嫌がらせにならないじゃない」
「おい、少しは申し訳なく思えよ!」
 俺はボディを洗っていく。黒だと白よりも案外汚れが目立つのだ。綺麗になっていくのが分かると、やはり嬉しい。
「……考えてみたら、俺は自家用車で通勤することが多いからな。すぐブッ壊されるなら高い車買ったって意味ねェし。狙われる時も多いからな」
「尽く返り討ちにしてるクセに何云ってるのさ」
 台の上から太宰が云った。ただでさえ高い身長がもっと高くなっている。いつも苦労して屋根の中央を洗うのに、さして苦労している様子はない。だから、ちょっとだけムカついた。
「キズがついたら嫌じゃねぇか。かわいそうだろ?」
「君ってさぁ、一般人をサラっと助けちゃうような人なのにそのくせ残酷だよね」
「襲撃してくる奴らは一般人じゃねェだろ。大切な車をキズつけさせるわけにはいかねぇなァ」
 ボディを洗った後、太宰にホイールを綺麗にしてもらうことにした。しゃがんでちょっと苦労するといい。俺は泡を流し、車内のカーペットを外して掃除機をかけた。革張りのシートも掃除機を掛けた後、柔らかい布で軽く拭いた。
「この体勢、地味にツラかったんだけど。嫌がらせかい?」
「……蟹のためだと思え」
「ホイール綺麗になったよ。見て見て! 蟹3倍でもいいくらいだよ」
 自慢げに太宰は言った。見ると、確かに綺麗に仕上がっている。蟹3倍か……。俺の分は残るんだろうか。
 その後、ふたりで水滴を拭き取り、今度はロードスターの洗車に取り掛かった。


「ねぇ、私、クラブマンにしか乗ったことないから今度ロードスターにも乗せてよ」
「いいぜ。手前、そんなに車好きだったか?」
「だってこれオープンカーでしょ? 乗ったことないんだよね」
「天気が良い日に走ると気持ちいいぜ。やっぱり開放感あるからな。バイクとはまた違うけど。どこか、ドライブにでも行くか」
「じゃあ、明日!」
「明日ぁ?」
「中也休みでしょ? 梅雨入りしちゃうとなかなか行けないだろうし、7月入っちゃうと暑いじゃん」
 太宰が云うことは最もだった。暑い季節にオープンカーに乗るのは辛い。いくら開放感があるとはいえ、単純に暑すぎるのだ。今までゴールデンウィークのような長期休暇は、せいぜい日用品を買い足すためにショッピングモールくらいしか行っていなかった。ドライブも一人だとどこか味気ない気がして、用事がある時以外に遠出はしなかった。
「明日、晴れみたいだし。どう?」
 太宰が見せてきたのは、携帯端末に表示されたお天気情報だった。降水確率0%。どうやら快晴らしい。
「じゃあ、行くか。折角洗車もしたし」
「やったー!」
 太宰って、これしきのことではしゃぐ奴だったっけ。そして、俺は久しぶりに同行者がいるドライブを想像してみる。隣には太宰。高速に乗ったら会話はきっとできないが、隣に居るだけでいつもとは一味違うんだろう。風を切って走るのは爽快感があるから、それを楽しんでくれたら嬉しい。明日は全国的に快晴らしいが、何処に行こうか。いつも使う高速道路以外のサービスエリアも利用してみたい。帰りに温泉に寄ってもいいかもしれない。
「ご飯食べて、行き先決めようよ」
 メシを作るのは俺だっての。洗車に使った用具を片付け、俺たちは家に入る。
 ドアが閉まる直前に、ふたりで洗った車が車庫に射し込んだ光でキラリと光って見えた。

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