とある理由でしにたくなってしまった中i也さんと、そんな中i也さんを助けたくなってしまった太i宰さんのお話。
- コミックス19巻の時点で死亡していないキャラクターの死亡あり。
- コンセプトは「有り得ないふたりを書く」です。
横たわる躰に、心臓めがけてグサリとナイフを突き刺した。これまで幾度となく命を奪ってきた。いつもの感覚を思い出す。人の肉は柔らかいようで、突き刺してみると案外固いのだ。だから、確実に死を与えるならば、もう少し深くまで切っ先が届かねばならない。力を込めてグっと奥まで差し込む。相手は一切声を上げなかった。流石である。このままでは辛いだろうから、すぐに終わらせてしまおうとナイフを引き抜く。生温かい鮮血が吹き出し、ベッドシーツがどんどん赤に浸食されていく。際限なく流れ出る赤は、己の視界までも染めあげていった。既に亡骸となったその人を見下ろすと、今までどこかふわふわしていた感覚が一気に引き戻された。心臓が急にバクバクし始め、手の震えが止まらない。手に持っていたナイフがカランと床に落ちていった。すっかり赤くなった両の掌を見つめる。嗚呼俺は、ついに、殺してしまった。
――――ポートマフィアの首領、森鴎外を。
「ああアあぁあぁぁぁああアッ!」
布団をはねのけガバリと起き上がる。呼吸は荒く、脂汗もたっぷりかいて寝間着が躯にピッタリ張り付いている。夢の延長線上にあるかのように、心拍数は上がったままだ。落ち着くまで暫くじっとして呼吸を整える。落ち着くとベッドから這い出てキッチンへ向かった。冷蔵庫からよく冷えたミネラルウォーターを取り出し、一気に躯に取り込む。冷えた水は躯の中に沁み渡り、幾分か冷静さを取り戻させてくれた。
俺は悪夢を見るようになった。いや、これが悪夢であろうと「夢」だったらどんなに良かっただろうか。俺、中原中也は、間違いなく自らの手でポートマフィアの首領である森鴎外を殺害した。
ヨコハマを中心とした、日の本全体にまで及ぶ抗争が勃発していた。影響範囲は広かった。裏社会の人間は勿論のこと、一般市民をも巻き込む形となってしまった。中心地であるヨコハマはそれはもう、甚大な被害を被った。市内は戦場と化した為、ありとあらゆるものが破壊された。これでも、被害は最小限に収めたのだ。首領のおかげだった。
俺は、首領の命令で首領を殺害したのだ。戦況が厳しくなる中、首領はある日幹部会で「私は組織のために、死のうと思うよ」と云った。その瞬間、誰もが信じられなくて静寂が訪れた。静寂の中首領は淡々と、自分自身が何故死なねばならないのか説明を始めた。説明が終わった後、誰もがその必要性に賛同せざるを得なかった。そして、殺害役を命じられたのが俺だった。今までの功績を鑑みての抜擢らしい。「中也君だからこそ、任せられるんだよ」と言葉を賜ったものの、普通の任務であれば光栄に思える筈の言葉は非道く残酷だった。組織全体の奴隷とは、ここまでしなくてはならないのか。その覚悟とヨコハマを守りたい気持ちを、俺は受け取らねばならないと思った。だからこそ、俺はこの過酷な命令を成功させようと決意した。
殺害当日首領の部屋に入ると、首領は既に寝台に横たわっていた。俺が入室したのに気付くと、首領は微笑みを湛えた。盗聴されている可能性もあったので、言葉を発することが出来ないのだ。俺はただ、事前に命じられた通りに行動するだけだった。万が一にも作戦が失敗してはいけない。首領の犠牲を無駄にすることなんて出来なかった。そして、夢に見た通りにナイフを深く突き立てた。刺すまではどこか靄がかかったようだったのに、首領の死を認識した途端、蓋をしてきた感情が溢れ出てきた。赤がやけに鮮やかに見えた。
首領殺害後は事前に決めてあった通り、俺が新たな首領になった。俺自身が首領になることに抵抗はあった。幹部の地位はそのままに、首領の座を空席で残すことも提案したがそれは許されなかった。トップダウン式の指揮系統は、マフィア内の荒くれ者共たちを効率的に管理するために必要だ。組織の頂上には、絶対的な権力を持つ長が居なくてはならない。先代の首領に忠誠を誓った時から、「この方の命令には、どんなことでも従う」と自ら決めた。だから、これが「命令」だと云うのなら俺はそれに従う。あの方が命を賭して守った組織を、ヨコハマを、俺の私情で壊すことは出来ない。今度は俺が、組織全体の奴隷になろう。そう、誓ったはずだった。
先代の首領を殺害し、抗争が終結してから3年が経とうとしている。自分がしたことを忘れない為に、月命日には必ず墓参りをしている。最初のうちは墓参りに行くことすら恐ろしかった。行こうとすると手足の震えが止まらなくなるのだ。それも己の罪であると、これは罰なのだと思い甘んじて受け入れた。
あれからヨコハマの復興は急速に進み、現在は抗争前の活気を取り戻しつつある。一時的に染まった視界の赤は、敵方の頭を屠ってから徐々に色を失っていった。今では感情に任せて力を振るっていた15歳の頃が懐かしい。彩度はどんどん失われ、今ではすっかりモノクロームな世界になってしまった。まだ懐かしさのあるレトロな感じなら良かったが、俺が見ている世界は只々冷たい灰色だった。ヨコハマは以前に戻りつつあるし、マフィアだって先代首領に倣ってきっちり治めている。順調に物事が進んでいる。喜ばしいはずなのに何故自分の心は冷えたままなのか、今の俺には全く検討がつかなかった。だから今夜も、彼奴を呼ぼうと思う。俺は懐から端末を取り出し、電話番号を打ち込んでいった。彼奴の電話番号は電話帳に登録してある。しかし、何度も連絡するうちに番号を覚えてしまった。今では直接打ち込んだ方が速いのだ。コール音が何度か鳴った後、彼奴――太宰治が応答した。
「ちょっと中也、こんな時間に何の用?」
「よぉ太宰。俺の家に来い。今すぐ」
「君さぁ、今何時か分かってる? 馬鹿なの?」
「深夜2時だよ。手前には云われたくねェな。嫌だったら電話に出なけりゃいいンだ。出た時点で負けたも同然だろ。いいから来い。じゃあな」
一方的に電話を切ったが今までの経験上、なんだかんだで彼奴は来る。それならば、と準備をするために浴室へ向かった。
最近中也に呼び出されることが多くなった。それも深夜に。何をするのかって? そりゃあナニに決まっているじゃないか。15歳の時に出逢って、何かと気に食わない相棒とただひとつ合ってしまったのは躰だった。最初はただの好奇心だった。負けず嫌いで意地っ張りでどこか野性的な中也が、理性を忘れて快楽に呑まれていくのを見るのが好きだった。冷静であろうとする中也を、ぐずぐずに溶かして本能だけの姿にすることにとても興奮した。嗜虐心を煽られてつい非道く扱ってしまうこともあった。今まで抱いてきたどんな人より中也の抱き心地は最高だった。だからこんな関係が、今もなお続いているのだ。中也はポートマフィアの首領になった。いくらでも女を侍らせることが出来ると云うのにそうしないのは、中也もこの快楽の味を覚えてしまったからなのだろう。あとはそう、首領になってしまったから、かつて以上に弱みを見せられなくなったんだと思う。
最近中也は、悪夢を見るようだ。ある夜セックスした後に眠っていると、突如隣から耳をつんざくような悲鳴が響き渡った。もぞりと寝返りをうって中也の方を見た。質の悪い悪夢らしく、中也の顔は青ざめて血の気がない。珍しく大丈夫そうになかったので、彼の手を取って小さな頭を胸に抱き寄せた。暫く背中をゆっくりとさすっていると、中也が消え入りそうな声で「しに、たい」と呟いたのだ。耳を疑った。あの中也が、こんなことを云うなんて。森さんが死ぬ前日に云われた言葉が頭を過った。
「中也君をよろしく頼むよ。中也君の相棒足り得るのは、太宰君だけだから。探偵社員の立場からでいい。君にとっては立場なんてあってないようなものだ。だからこそ君に託すよ。中也君にどうか、寄り添ってやってくれ」
当時の戦況を見るに、森さんが考えた手法が最善手であったことは考えるまでもなかった。それでも、まさか本当に実行すると私は思っていなかったのだ。何せ、中也への負担があからさまに大きいから。その後、駒が壊れてしまう可能性も十分にある。未来のリスクを考えたらこんな判断は出来ない。要するに、選択肢を選べないほど切迫していたのだ。森さんは中也を助ける駒として私を選んだらしい。
森さんの言葉はさておき、こんな姿の中也を見て私にしては珍しく「らしくない」と思ってしまったのだ。その人らしさというのはあくまでその人自身が決めることであって、他人がとやかく口を出すことではない。それは自分自身の、その人に対する期待値でしかないのだ。つまり私は、中也に対してある種の期待を抱いていたことになる。この私が、他人に期待を。織田作に「人を救う側になれ」と云われて探偵社に入社した。何年もこちらの世界で過ごして、仲間たちの手を借りながら少しずつ「善い」とされることをしてきた。しかしそれは、「探偵社員」としての枠組みを出ない範疇に過ぎなかった。私は人を救う側に来て初めて、ただの個人を「救済したい」と思った。私が中也を救ってみせる。仮令それが己の欲望に依るものだとしても。
ある夜、中也から電話が掛かってきた。自宅への呼び出しだった。つまり、今夜はシたいということだ。私と中也の関係は恋人では決してない。一緒に住んでいるとか、食事だけは一緒だとかそういったこともない。昔一緒に働いて、背中を預けたことがあるだけ。今では気まぐれに躰を合わせる、ただそれだけの関係だった。だから、中也を救うといっても私が直接アプローチ出来る時間はかなり限定的だ。ひとまず中也に逢って、観察するところから始めようではないか。
中也の家に到着し、インターホンを鳴らす。暫くして足音が聞こえてきて、ガチャリとドアが開いた。あいさつする間もなく突然私は中に引き込まれた。壁に押し付けられループタイを思いっきり引っ張られ、強引に口付けされた。なんだ、今日はとても積極的じゃないか。熱烈な口付けを受け止めながら、私も負けじと舌を絡めた。
暫くすると落ち着いてきたのか、中也が漸く唇を開放してくれた。銀糸がぷつりと切れる。中也の瞳は欲に濡れているが、その奥には深い悲しみの色が見えた。
「なァ、だざい……」
「なぁに?」
「今夜は、非道く抱いてくれ」
私が身勝手に非道くすることはあっても、今まで中也からこんなことを頼まれたことはなかった。実は、今日は森さんの月命日だった。だからまた中也は感情に蓋をして、悲しくないフリをして、痛みを吐き出すことなく溜め込んでしまっているのだろう。
「ぜんぶ、わすれさせて」
それなら今夜は、君に寄り添おう。情熱的な口付けに流されたフリをして、私は中也の要望に従った。これ以上ないくらいに、中也を食べ尽くした。君の悲しみが消えるように。吐き出される嬌声は、どこか悲痛だった。
ある夜、中也から電話があった。中也の家に赴くと、玄関の鍵が既に解錠してあった。遠慮なく入り、寝室に向かう。寝室のドアの前で一応ノックをして入ると、そこには自慰行為に耽っている中也が居た。
「っあ、だざい」
「珍しいね。待ちきれなかったの?」
ベッドまで移動ししゃがみ、裸の中也と目線を合わせる。顔をよく見ると、涙の跡がきらりと反射した。
「ん、はやく、触って」
私の腕を掴んで催促してくる。これは一端抜いてあげた方が良さそうだ。外套を脱ぎ捨て、中也を後ろから抱え込んだ。
「今日も、任務お疲れ様」
中也の陰茎を握り込みながら声を掛けると、その言葉にびくりと背を震わせた。
「おれは、なにも、できなかった」
「そうなのかい?」
ゆっくりと、刺激を与えすぎない程度にゆるゆると扱く。
「おれは、報告をきくばかりでっ、ん、たすけにいって、やれなかった。ぼすだから、ぁ」
「違うよ。君はちゃんと作戦を吟味して、指示を出した。中也が首領だ。分かってるんだろうけど、首領がホイホイと敵地に赴いちゃア駄目だよ。君は職務を全うしたんだ。そうだろ?」
仕入れた情報によると、海外勢力との交戦があったらしい。それで少なからず、マフィア側にも犠牲が出た。中也は犠牲を出したことに対して罪悪感がある。自分が助けに行けたのならなおさらのことだろう。中也が幹部の時も、部下が犠牲になる度ひっそり泣いていたのを私は知っている。
溢れてきた先走りを擦り付けるようにして、扱くスピードを速めていく。
「ン……ちゃんとっ、できてるか?」
「出来てるよ」
「ぼすに、ッ……なりきれてる?」
「ちゃんと、なれてるさ」
「ほん、とうに?」
「嗚呼。本当だとも」
「や、ぁンっ……イく、だざい」
「いいよ、イきなよ」
そして私の手の中に、中也は白濁を吐き出した。背中がいつもより小さく見えて、ふわりと中也を抱き締める。決めた。今夜は甘やかしてやろう。中也が中也自身を認められるように。
ある夜、今度は私から中也を呼び出した。場所はマフィア管轄の高級ホテル。スイートルームを事前に予約しておいた。マフィアには関係ないが、今日は土曜日で私は休日だ。折角スイートルームを予約したのだからと、朝から部屋で寛いでいた。適当に大画面のテレビで映画を観たり、普段あまり読まない雑誌を読んだりしていたら、割とあっという間に夜になってしまった。端末をチラリと見る。そろそろ中也が来る頃合いだ。
程なくして中也が部屋にやってきた。
「おかえり、中也」
「ただいま。手前、こんなとこに呼び出してどうするつもりだ?」
「中也、夜ご飯まだでしょう? 夜中でも食べれるように、お粥用意してもらったから食べなよ」
大画面テレビと私が座っているソファーの間にはローテーブルがある。その上に粥が用意してあった。ルームサービスで頼み、中也が来る直前に受け取ったのだ。
「明日は雹でも降るのか?」
「中也ったら非道い! 私にだって、君を思いやる気持ちはあるのだよ」
「まぁ、な。最近手前なんか優しいし。何かあったのか?」
中也は私の隣に座って粥を食べ始めた。
「何かあったのは君の方でしょ。また無理をして。だからね、今日はセックスはなし。この部屋でゆっくり過ごしてよ」
芥川君から、中也が最近執務室から出て来ないと聞いていたのだ。姐さんからも、休暇を取るよう云ったけれど聞いてくれないからどうにかしてくれと云われた。ふたりとも長い付き合いになるので、中也とのただれた関係を知っているのだ。
ここ最近の中也は、目に見えてやつれている。首領の仕事は確かに激務だ。何より最終的に責任が全部降りかかってくる。それ以上に中也を困らせているのは、森さんのことだろう。中也は森さんとはタイプが違う。森さんは完璧な合理主義者だ。理にかなっているか否か。自らの命さえ、それが最適解ならば惜しまず差し出した。一方中也は、物事を冷静に見極める頭はある。しかし、感情的な部分を排しきれていない。非情な判断をせねばならぬ時、頭では分かっていても心が拒絶してしまうのだ。このジレンマは、精神的に大きな負担になる。まだ幹部であれば、意に反することであろうと「首領の命令」という名目のもとに負担を少なくすることが出来た。いや、中也の場合、森さんへの忠誠心はとても強固なものだったから、少ないどころかほぼ抵抗を感じていなかったのかもしれない。何にせよ、心の支柱だった森さんを失って、今の中也は首領になってしまった。感じているストレスは、本人が自覚している以上のものだろう。森さんから命令されて首領になったのならなおさらだ。中也は首領になることを拒めず、自らの意思で辞めることが出来ない状態なのだ。
中也は黙々と粥を食べ続け、完食することが出来た。食べ終わると「ごちそうさまでした」と手を合わせた。食欲はあるようで良かった。
「美味かったぜ。ありがとな、頼んでおいてくれて」
「うん。いいよ、たまにはね。お風呂も沸かしてあるから入ってきなよ。それからゆっくり寝て、疲れを取るんだ」
「分かった。……俺、そんなに疲れてるように見えるか?」
不安そうな顔をして、中也は聞いてきた。
「だって、隈が非道いし肌もあんなに綺麗だったのにちょっと荒れてるし、見たら分かるよ。どうせ、その場しのぎにエナジードリンク飲んで、寝たい時に寝れなくなっちゃったんでしょ? それが何週間も続いたら、そりゃこうなるさ。中也に会わない構成員なら分からないかもしれないけど、私には分かるよ。君のことだから。愛犬の世話はちゃんとしなきゃね」
本当は仕事が忙しくて疲れているのではなく、精神的に参っているのだろう。それは敢えて、今云わないことにした。
「……太宰には、敵わないな」
そう呟くと、中也は風呂場へ向かっていった。
中也が、どうもおかしい。私はそう感じていた。「太宰には、敵わないな」なんて、云うはずがない。あの負けず嫌いな中也が、私に対して負けを認める発言などするわけがない。これは相当疲れてるし、精神的にももう限界なのかもしれない。そう思うと嫌な予感がして、私は急いで風呂場に向かった。音を立てないようにして更衣室に入り、浴室のドアを開けた。
そこには、湯船に浸かりながら手首に剃刀の刃を宛ててぼんやりしている中也が居た。流石の私もサーっと血の気が引いた。中也がぼんやりしている隙に、剃刀を取り上げる。握る力は弱く、簡単に手から離れた。衣服が濡れるのも構わず浴槽に入り、中也の脚を跨いで膝をついた。中也はぼぅっと私を見つめる。虚ろな瞳だった。
「死にたい?」
「しょうじきなところ、わからねェ。ただ、しんだららくになる。そうおもった」
「君はね、君が自覚している以上に、今の状況が辛いんだよ。分かる?」
「おれが、つらい? ……おれが?」
「そうだよ。中也は死にたくなっちゃう程、辛いんだよ」
「つらいのは、おれじゃなくてみんなだろ。そしきにひつようなぼすをおれが、ころしたんだ」
「あの時の森さんの作戦は、一番犠牲が少ない方法だった。でも、君にだけは、一番過酷な作戦だった。それを今まで、君は独りで抱えてきた。マフィアもヨコハマも今は安定している。森さんだけじゃない、中也ももう任務を果たしたと判断していいんじゃないかな。だからもう、今まで封じ込めてきた色んな感情を、吐き出しても大丈夫だよ」
私は中也の両手を取って優しく包み込んだ。
「もう、いいのか。おれは、もう」
困惑に満ちた視線を中也は送ってきた。私は中也の手を握る力を少し強めた。
「ほら、ゆっくりでいいから。悲しかった?」
「……かな、し、かった」
「苦しかった?」
「くるし、かった」
「そうだね、辛かったね」
「つらかった。……つらかっ、た」
ほろりと涙が一筋頬を伝う。
「やっと泣けたね中也。頑張ってきたんだよ、君は、しっかり。愚直すぎるほどに」
「おれは……っ、がんばった」
「うん。頑張ったよ」
中也の瞳から堰を切ったように涙が溢れてくる。私は両手で中也の頬を包み込み、親指で透き通った滴を拭う。虚ろだった瞳は、徐々に洗い流されて元の蒼に戻ったように見えた。嗚咽し始めた中也を抱き寄せる。溜め込んだ感情が水底に沈むまで、じっと待っていた。
俺が首領になった後、真っ先にやるべきことは敵方の頭を潰すことだった。内部争いに見せかけるため、首領殺害の計画は幹部クラスの人員にしか知らされていなかった。一般の構成員には首領殺害後、時期を見計らい遺言書の形で「俺を次期首領に任命したこと」と「俺が命令で殺害せざるを得なかったこと」を公表した。したことがしたことだったため発表直後は混乱したものの、俺が直々に敵方の首領の首をとることで皆は俺を認めてくれた。
先代の首領が固めた地盤を崩さないように、俺は組織を治めた。最初は広津や姐さんに色々教わりながら、次第に首領らしさというのを身につけていった。常に計画通りに物事が進む訳ではない。時には厳しい判断をせねばならないことも多々あった。首領になって一番無力に感じたことは、現場に行って仲間を助けてやれないことだった。作戦の内容はきちんとチェックするし、もしもの場合に援軍を送る許可を出すことも出来た。最新の武器が必要なのだと云われれば、取引先に上手く頼んで調達することも出来た。下から上に上がってきたことは、どんなに小さな事でも吟味し、必要ならば許可を出した。しかし、俺自らが敵地に赴くことだけは立場上不可能だった。俺が援軍に向かえば助かった命があると思うと、心が痛かった。そういうことがある度、自宅でひっそりと涙を流した。情けないとは思ったが、どうしても止められなかった。「俺に首領は向いていない」と薄々思っていたが、どんどん膨れ上がっていった。
そうしてジレンマを抱えながら俺は首領としての職務を果たしてきた。次第に降り積もっていった悲しみを、俺は段々処理出来なくなっていた。頼れる人が居ないことはないが、間違いなく心配を掛けるだろう。首領としての威厳もある。「組織の奴隷」になることが如何に艱難辛苦を伴うことであったか、今になって理解出来た。長になるということは、孤独になることと同じだ。誰も頼れなくなる。誰も信じられなくなる。他の者が何を考えているのか、真意を見極めなければならない。分厚い仮面を被っているのかもしれない。その仮面の下の本心が、組織への裏切りで染まっているのなら、容赦なく切り捨てなければならない。全ては、何をしたって最終的に長である自分に降りかかってくる。それならば、頼れるのは己のみ。人に頼ることを自ら封じ、一緒にあらゆる悲しみを閉じ込めた。首領を自ら殺害した悲しみ、仲間を助けてやれなかった悲しみ。汚れてしまった、己の悲しみ。何も感じていなかったことにした。
それでも悲しみが、頑丈な箱に入れて南京錠まで付けたというのに、時々音を立てて暴れ出すのだ。一度鍵を開けてしまえばもう元には戻れないだろう。俺が死ぬまで、せめて首領でなくなるまで、この箱は開けてはいけない。そう思っていた。だからこの壊れそうな自分の感情の捌け口を、俺は快楽に求めた。酒を呑む量が増え、煙草もキツいものを吸うようになった。わざと激務になるよう、自らを追い込んだ。一番増えたのは、太宰とのセックスだった。15歳の頃から付き合いがある。今は探偵社員だが太宰は元マフィアだ。今でも一応、探偵社との共同戦線は続いていた。身内でもなく敵でもない。しかも、俺のことをよく知っていて躰の相性は最高ときた。皮肉なことに、俺はあの人間失格野郎に頼らざるを得なかったのだ。太宰も満更ではなさそうだったので、これならいいかと思った。
太宰とセックスをしている時は、何もかも忘れることが出来た。我を忘れる程気持ちがいいのだ。躰の奥を突かれる度、視界がチカチカと点滅した。俺と太宰の境目が分からなくなって、どろどろに溶けていく。「気持ちいい」しか考えられなくなる。はしたなく嬌声を上げ、「もっと」と強請り、何度も白濁を吐き出した。濁った欲を見る度、感情も一緒に吐き出せた気がした。まぐわった後、疲れてすぐに眠れるのも良かった。
太宰が優しいと感じ始めたのは、俺がうっかり「死にたい」とぼやいてからだった。「死にたい」気持ちなんて、分かるはずがないと思っていた。かつて太宰がマフィアに居た時、自殺しようとして失敗した太宰を相棒として迎えに行っていた。どちらかと云うと太宰の「死にたい」は生きるのに飽きたからだと思っていた。「飽きただけだ」と。でも、それを実行しようとするのには踏ん切りが必要だ。今回それがよく分かった。俺は死を夢見るばかりでなかなか実行に移せなかった。踏ん切りなんてまるでないように、それほど死にたいのなら、死のうとしてしまうなら、太宰の苦しみもまた深いものだと分かったのだ。一生理解出来るはずがないと思っていた存在だったのに、死の淵に立って初めて、太宰のことを間近に感じた。彼奴のことだからそんなに気にしないだろうと思っていたが、あれから俺を見る瞳が愛おしげになった。俺が「こうして欲しい」と頼んだ時もあったが、何も頼んでいない時の手つきは優しかった。これはこれで愛されている気になれた。ギリギリを生きる俺にとって、他人からの暖かさを感じることが出来る唯一の機会だった。
そして今回、相手が太宰とはいえ悲しみを閉じ込めた箱の鍵を開け、箱を壊してしまった。湧き出る感情は留まることを知らない。俺はもう、首領として振る舞うことが出来ないと悟った。使えなくなった駒は、早急に退場すべきだ。だから俺は今度こそ、死のうと思う。でも最期に、もし望んでいいなら、もう一度あの憎き相棒に抱かれたい。せめて、もう一度暖かさを感じてから死にたかった。太宰へ電話を掛ける。番号をタップする指が震える。太宰が出なかったら、決意が揺るがないうちに死んでしまおう。コール音の後、無事に太宰が出た。
「もしもし? またこんな時間に掛けてきて。そんなに私が恋しいの?」
「嗚呼。俺は恋しいぜ、手前のこと。なァ、今から来てくれるか?」
どうせ死ぬんだと思って、今夜だけはいつもは絶対に云わない本音を伝えたかった。
「しょうがないなぁ。君がそう云うなら、行ってあげる。待ってて」
そこでぷつりと電話は切れた。どうやら死ぬのはもう少し先らしい。太宰が来るのに30分程掛かる。気持ちを落ち着けるために珈琲でも飲むか。俺はキッチンに向かった。
約30分後、俺の予想通りの時間に太宰がやってきた。
「今夜は何か、要望あるのかい?」
「嘘でもいい。これっきりでいい。おれを……あいして、ほしい」
「……分かった、いいだろう。中也、準備はまだしてない?」
「あぁ。まだだ」
「じゃあ今夜は、私が準備してあげる。お風呂、一緒に入ろうか」
大宰が俺の手を取って一緒に浴室へ向かう。思えば、太宰がわざわざ俺の準備をするなんて、今までなかった。柄にもなく緊張してきてしまった。
脱衣所に入り、自分から服を脱ごうとすると太宰に止められた。
「今日は全部私がしてあげる。はい、バンザイして」
ぎこちなくバンザイすると、太宰が部屋着のTシャツを脱がせてくれた。ズボンと下着も太宰にされるがまま脱がされた。なんだかこそばゆい気分だ。太宰も服を脱ぎ、ふたりで浴室に入る。
「中也、座って」
云われた通り、風呂場にある椅子に座る。適温のシャワーで全身を濡らされた。泡立てたスポンジで躰を優しく洗われる。スポンジが肩から腕を撫でて、胸に辿り着くとくるくると突起を刺激し始めた。
「あっ」
「中也はここ触られるの、好きだもんね。もう勃ってきちゃって可愛い」
可愛い、なんて云われたことも今までなかった。自分が男だからこう云われるのは複雑な気持ちだが、太宰から云われると心が浮き足立つのが分かった。
「さぁ、大事な所も綺麗にしようね」
そう云うと太宰は俺の脚を開かせ、その間に入り込んだ。そして俺の陰茎にスポンジを這わせた。先程乳首を触られたせいで、既に反応しかけていて恥ずかしい。陰嚢も泡をまとわせた手で綺麗にされた。ついでに脚や背中などひと通り綺麗にしてもらった。
「中也、私に抱きついて。後ろ、解してあげるからさ」
「え、壁じゃ駄目なのか?」
「今日の中也は愛されたいんでしょ? 壁だと痛いし掴まれないじゃない。だからおいで」
太宰の言葉に顔がカッと赤くなるのが分かる。自分で要望したので断れない。大人しく太宰に抱きついた。ドクドクと太宰の鼓動を感じて、何だか安心する。太宰の左腕が腰に回った。
「じゃあ、挿れるね。声出してもいいからね」
ゆっくりと太宰の指が入ってくる。
「んっ、あ」
指が内壁を擦れる感触が、既に気持ちいい。
「気持ちよさそうだね。余裕そうだから指増やすね」
ズプっと指が入り込んできた。先程より多い感触だ。くるくると、中を広げるように指が動く。
「あっ、ん、んっ」
「流石に柔らかいね。君とはいっぱいセックスしてるから。ねぇ、解すついでにこのままイきたい?」
太宰が確かめるように、ゆっくり指を抜き差しする。俺の頭の中は既に気持ちよさでぼんやりしてきていた。指を完全に抜かれる時、「あっ」と切なげな声を漏らしてしまった。きゅんと後孔が締まるのが分かった。
「奥までもう欲しそう……。中也のえっち。今日は加減しなくて良さそうだし、イっておこうか」
太宰の指がもう一度、俺の中に入ってくる。俺より長い指は、いとも簡単に体内を暴いていく。動きは緩やかなのに、俺の躰を知り尽くした大宰の指は的確に快楽を引き出していった。奥の凝りをぐっと刺激されると、脚に力が入らなくなった。太宰にそこをぐりぐりと押しつぶされ、その気持ちよさに太宰の胸に額を押し付ける。切れ切れに嬌声を上げながら、俺は欲を吐き出した。太宰は体内から指を引き抜くと、俺をぎゅっと抱き締めてくれた。太宰は力が抜けた俺を椅子に座らせ、手早く躰を洗っていた。
「うふふ、中也が気持ちよさそうで嬉しい。さて、準備も出来たしベッドに行こうか。君はもうトロトロだけど」
「うる、せェ」
バスローブを羽織って再び寝室へ。ふたりしてベッドになだれ込んだ。
「今日は中也の要望通り、めいっぱい愛してあげる。してほしいことある? あ、多分止められなくなっちゃうと思うから、それだけよろしくね」
此奴、俺を抱き潰す気だな。死ぬ予定の俺としては、足腰が立たなくなるのは困る。今日の太宰はいつもよりもっと優しい。俺が欲にまみれていく姿を可愛いと云ってくれた。嬉しいと云ってくれた。太宰が微笑む表情が忘れられない。これまで何度も躰を重ねてきたのに、今が一番ドキドキしている。まるで現実ではないみたいだ。でも、これが最後と云うのなら、嘘でも愛してくれると云うのなら、この、ふわふわした気持ちを全部味わいたいと思った。
「普通のコイビトみたいにあいして。キスして、抱き合って、お互いを求めて、あわよくば太宰も……満たされてくれよ」
俺が出来るのはもう、これくらいしかないのだ。
「中也がそう望むのなら。キスしていいかい?」
太宰がゆっくりと俺を押し倒した。やけに整った顔が眼前に広がって、とても心臓に悪い。そういえば彼奴、顔が良かったんだった。
「なっ、何を今更」
「んー、今夜は初心に返ろうかなァと思って。で、どうなの?」
「キス、しろよ」
恥ずかしくてとても目線を合わせることが出来なかった。目線を逸らして言葉を紡ぐと、時間を置かずに唇が降ってきた。感触を確かめるように数秒合わさり、少しだけ熱を移して離れていった。いつもならもっと深い口付けをしているのに、これだけで酩酊しそうだった。
「なァ手前、薬でも盛ったのか?」
「そんなわけないじゃない。気持ちいいんだ?」
「だざい、もっと」
俺が強請ると、太宰はふっと微笑んだ。そして、髪を掻き分けて額に、目蓋に、鼻先に、両頬に、最後に唇に口付けた。
「もっと?」
「もっと、ほしい」
角度を変えながら今度は唇に何度も口付けられる。くぐもった甘い声がつい漏れてしまう。段々物足りなく感じてしまい、口付けの合間にかぷりと太宰の下唇を甘噛みする。太宰の舌が俺の唇をぺろりとなぞる。誘い込むように唇を開けると、熱い舌が口内に入ってきた。歯列をじっとりとなぞり、舌をじゅっと吸われる。出て行こうとするのを追いかけて舌を伸ばす。少しざらりとした舌を擦り付ける。これが気持ちよくて、水音を立てながら貪ってしまう。太宰の舌も動くと、予想できない動きが更なる快感を生んだ。気付けば自身もすっかり首をもたげており、先走りをこぼし始めていた。こうなるともう止められなくて、太宰の蓮髪に手を差し込み引き寄せた。腰もつい太宰に押し付けてしまう。時々舌を吸われながら、擦り合わせるスピードを速めていく。
「アっ、ン……ん」
太宰の手で耳を塞がれた。脳内に水音がダイレクトに響き渡る。これはたまらない。気持ちいい、我慢出来ない。そして俺はあっさり欲を吐き出した。
俺がイったのを確認すると、太宰はリップ音を立てて漸く唇を離した。テラテラと唾液で光って艶めかしい。もう一度触れたくて、首を引き寄せて今度は俺から口付けた。
「中也、独りはさぞ、寂しかったでしょう?」
太宰はそう云いながら、俺のバスローブの紐を解いて脱がせた。そして、俺の躰を愛撫していく。触れられた箇所から、ぞわぞわともどかしい感覚が這い上がってくる。
「……そうだな。今思えば、孤独だったな」
太宰のぬくもりに縋らねばいけない程、寂しかったのだ。
「飼い主として私が隣に居てあげる。ずっと、最期まで」
「それはそれはご苦労なことで」
それなら、死に場所はここか。海にでも行って、そこで死ねばいいと思っていた。俺の死体を最初に発見するのが太宰なら、きっと悪いようにはならないだろう。まァ、死んだ後のことはどうなったって知る由もないが。
「ひあっ」
考え事をしていたら、不意に胸の突起をぐりっと押しつぶされた。思わず躰がはねる。肉体関係を持ち始めた当初は全く感じなかったのに、今では立派な性感帯になっていた。
「考え事なんてして余裕だね? もっと、私を見てよ。他に何も要らないって思うくらい、私の愛をあげるから」
俺が「あいして」と頼んだから、今夜はこんなことを云ってくれるのか。それにしても、太宰が涙目なのはどうしてだろう。いや、きっとこれは演技なんだ。何で、俺のこんな頼みを聞いてくれたんだろうか。本来、俺のことは大嫌いな筈だろう? 嘘の愛を囁くなんて朝飯前なのか? ここにきて、快楽以外で太宰が俺の要望に律儀に応えるメリットがないと気付いた。今まで通り、普通に躰を重ねるだけでも快楽は得られるのだ。十分すぎる程の快楽が。それをわざわざ、大嫌いな奴の願いを聞くなんて、彼奴は一体何を考えているのだろう。あるいは本当にあいしてくれているのか。それならば、俺も太宰に愛を、くれてやろうと思う。嘘でも本当でもどちらでも構わない。少しの間でこれが最後になるが、精一杯の気持ちを込めよう。
いつも通り「手前の愛なんざ、願い下げだ」と返すのを止めた。
代わりに「全部受け取ってやる。太宰を、くれよ」と云った。
ローションを纏った指が、俺のナカに入っていく。「解れてると思うし挿れてもいいぜ」と俺は云ったが、太宰は聞いてくれなかった。受け入れる側の俺としては気を遣ってくれて有り難いと思うが、太宰が余裕なさげだったので声を掛けたのに。彼奴がそうしたいならそうすればいい。太宰は先程から緩慢な動きで俺のナカにローションを塗りたくっていた。既に2回も達しているからか、俺はすぐに物足りなくなってしまった。
「だざい、はやく。もういいから」
「うーん、そうだね。中也のナカとろっとろになったし。受け取ってよ、私を」
太宰は自分のバスローブを脱ぎ、床に放った。張り詰めた陰茎を俺の後孔にあてがう。これから訪れるであろう快楽に、ひくりと躰が震えた。
「ん、ンっ……」
ゆっくりと体内に入ってくるのが分かる。挿入のスピードは、いつになく緩やかだ。少しずつしか進まないのはもどかしいが、ナカが太宰の形に広がっていくのを鮮明に感じることが出来た。じわじわと、太宰に犯されていく。太宰があれだけ念入りにローションを塗っていたのは、この感覚を味わわせるためだったのだろう。きつくなる部位もなく、やがて俺は太宰を全て身に収めた。息を深く吐き出す。みっちりと太宰に吸いつく俺の媚肉、太宰の熱い楔。太宰と性行為をしている自分を、初めて幸せだと感じた。
「入ったね、ちゅうや」
嬉しそうに目を細め、俺の腹をさする。
「おかしい」
「何処か痛いところでもあったかい?」
「いつもはもっと、激しいだろ。今日はまだ動いてないのに、入れただけなのにすげーきもちいんだ」
「いいじゃない、気持ちいいなら。よし、少しずつ動くね」
こくりと頷くと、太宰は律動し始めた。
「ン、きもちい……」
ゆさゆさと奥を突かれる度に、自分がとろけていくのが分かる。もっととけて、まざりあいたくて口付けを強請る。差し出された舌にたまらず吸いた。水音を立てながら互いの唾液を交換する。脳内は既に快楽を感じるだけで精一杯だった。同時に今夜は、何とも表現し難い多幸感もあった。今なら本当に、ひとつになれそうだ。上も下も、もうぐずぐずだった。ひたすらに気持ちいい。
徐々に律動は激しくなり、最奥を抉るようになった。先程から白濁を何度吐き出したか分からない。意識が飛びそうになるほどの快楽が俺を襲っていた。頭の中が白黒点滅する。はくはくと呼吸をすることしか出来ない。それでもまだ太宰と繋がっていたくて、快楽で震える腕で太宰を抱き寄せた。引き寄せた太宰の顔が耳元に来る。とても気持ちがいいけれど、意識を失ったら今夜はもう終わってしまう。俺は死ぬんだ。俺は太宰に、愛を贈ることが出来ただろうか。太宰は少しでも、満足出来ただろうか。すると、太宰に手を絡め取られた。
「ちゅうや、もう大丈夫だよ。私、いっぱいもらったから。ありがとう」
返事をする余裕がなかったので、太宰の手を握り返した。俺の思考なんて、やっぱりお見通しなんだろうか。太宰が満足したなら、いいか。
「イってもいいよ、ちゅうや」
耳元でそっと囁かれ、俺は遂に意識を手放した。あたたかくて、しあわせだった。
目が覚めると、カーテンから差し込む光が明るかった。随分と眠ってしまったらしい。時計を見ると12時を過ぎていた。まだ昨夜の余韻が残っているのか、気分はふわふわしたままだった。幸せだったなァと思い返す。ふと隣がいつもより温かいなと思って身を捩ると、そこにはなんと太宰が居た。未だに眠っているようだ。殆どの場合、自分が目を覚ます頃には既にもぬけの殻なのだ。己の躰はすっかり清められていた。あれだけ激しくまぐわったので、後処理までしてくれたことは感謝すべきなのだろう。
昨夜、太宰が最期まで隣にいてくれると云っていた。やはり、死ぬなら今この瞬間なのだろう。たまたま太宰が今も隣に居るからだ。死体の処理が面倒だとは思うが勘弁して欲しい。太宰はマフィアを出奔する際、俺の車に爆弾を仕掛けた。その仕返しだと思ってくれればいい。サイドチェストから護身用の拳銃を取り出した。こめかみに銃口をあてがう。さようなら、俺の世界。本当なら最期は戦って死にたかった。組織のために死にたかった。俺はもう、それすら許されないのだ。最期に人肌を感じることが出来て嬉しかった。嘘でも愛されていると思えて、あたたかい気持ちになれた。もう、充分ではないか。引き金に指をかけ、力を込めた。
――――何も、起こらなかった。
「ちょっと中也、何私の真似してるのさ」
いつから目覚めたのか、太宰が起きていた。太宰は俺と同じように、上半身を起こした。
「だ、ざい」
手元にある拳銃を確かめてみると、入っていたはずの弾丸がひとつも入っていなかった。護身用とはいえ、いつかは使うことを想定していたものだ。定期的に手入れはしていた。3日前に確認したばかりだった。これは、どういうことだろうか。
「中也、君、分かりやすすぎ」
「……」
俺は驚きで返す言葉が出て来なかった。
「『あいして』なんて云っちゃってさ、最近の君を見てたら『これは死ぬつもりなんだな』って分かっちゃうよ、ばか! しかも、足腰立たなくなるまで抱いたつもりなのに起き上がれるし。弾丸抜いておいて良かったって思っちゃったじゃないか!」
「……なぁ太宰、俺は、死ぬべきなんだよ。もう、首領として振る舞えねェ。俺は必要ないんだよ」
「いいや、君はマフィアに必要な存在だ。君の戦闘力は、マフィアにとって大きな力になる」
「でも、俺が首領だと戦えねェんだよ! そういう意味で、俺は、首領に全く向いてないってよく分かったンだ」
「そこに関してはまったく同意見だ。今の仕組みを変えないなら、君に首領は向いてない。首領は君だから、命令すれば前線に出られた。それをしなかったのは、森さんが作り上げてきたモノを壊したくなかったから」
「そうだよ、悪ィかよ?」
「私は……私は、君がそうやって自分を殺して死んでいくのを、見てられなかったんだ!」
珍しく太宰が声を荒げた。怒ってるのだろうか。
「手前が、そんなことを……。だから途中から、あんなに優しくなったんだな」
「私、初めてだったんだ。織田作が亡くなってから、特定の個人を心の底から助けたいと思ったのは。あの時は間に合わなかったけど、今はまだ間に合う。中也、私の提案を聞いてくれないかい?」
「太宰、何を云うつもりだ」
「受け入れられないのなら、無理に乗らなくてもいい。聞いた上で君がまだ死にたいのなら死ねばいい。今度は止めないよ。でも、恐らくこれが、現状を維持して、なおかつ君も最前線で戦える唯一の方法だ」
聞けばきっと、俺が納得出来る最大限の方法を知ることが出来る。一方太宰がこちらに選択をさせるということは、何らかのリスクもあるのだろう。どちらにせよ、これを聞いてしまえばもう後戻りは出来ないということだ。
ごくりと唾を飲み込む。死のうと思えばいつでも死ねる。しかし、この提案はこの機会を逃せばもう実現不可能になるのだろう。太宰はいつも、最適なタイミングを逃さない。俺が死のうとして初めて、その提案が良いモノに思えるんだろう。それなら、聞いてみるしかないじゃないか。
「分かった。聞く」
「そうかい。結論から云おう。私を、ポートマフィアの首領にしてくれないか」
「はァ? 手前、何云ってるのか分かってンのか?!」
「分かってるさ。中也は首領に向いてない。それなら、首領を辞めるしかない。ま、よっぽど優秀な幹部が居れば、その幹部に基本的な指揮は任せて、君は戦うことが出来たかもしれない。でも、先の抗争でマフィアは優秀な人材も失った。今の時点でそこまで任せられる部下が居なかった。そうだろう?」
「チッ、まるでマフィア内に居るみたいに内情をベラベラと……。悔しいがその通りだ」
「君は、首領を辞めようと思ったこともあったはずだ。でも、首領に相応しい人間が思いつかなかった。私以外に」
実は「太宰ならば」と何度も思っていた。
「だから、俺のためにまた戻ってこようってか」
「そうだよ。森さんの思惑通りっぽいのは癪だけどね。君は首領として地盤を固めることが出来たから、君が命じさえすれば大きな争いもなく私を首領に任命することが出来る。加えて私がマフィア幹部だった頃の実績をよーく知っている構成員が今はまだたくさん居るから、反対する構成員も少ないと思う。今ならね」
「手前が本気で、人助けをするのか」
「中也だからだよ。私がマフィアに居た頃、よく自殺に失敗してたじゃない。中也がいつも、迎えに来てくれたよね。ガミガミ五月蠅かったけどさ、その時だけは『独りじゃない』って思えた。特に、入水して引き上げてくれた時。毎回君の手のあたたかさを感じてた。おかげで今でも入水を止められない」
「なんだ手前、案外、寂しがり屋なんだな」
「そんなこと……あるかも。うわ、君に指摘されるなんて最悪」
「そうか、だから昨晩『独りはさぞ、寂しかったでしょう』なんて云ったんだな。独りの寂しさを知ってるから」
「そうかもね。孤独がずっと続くのは寂しいよ。独りじゃないって分かってしまったら、ね」
「……そうだな。織田のことはいいのか。手前は、織田の影響でウチを辞めたんだろ。また帰って来ていいのかよ」
「うーん、そうだなぁ。違う世界を見てみて、マフィアに居た頃とはまた違う判断が出来るかもしれない。今の私なら。それならきっと、織田作も分かってくれる。何より私は今、君を助けたいんだ」
「探偵社はもういいのか? 手前の居場所はあそこだろ」
「居場所かぁ。探偵社のみんなはこんな、人間失格な私を受け入れてくれて有り難いと思ってるよ。善い人っぽいことも出来たし、確かに幾分か素敵になれたと思う。でも、居場所はね、違うんだ」
「じゃあ何処なんだよ。手前の居場所」
「中也の隣。昨晩聞いてなかったの? 最期まで、君の隣に居させてよ」
「え、昨晩のアレは全部、演技じゃなかったのか?」
「さては信じてないね? 断言しよう。昨晩はずっと、本音を云ったから。嘘じゃない。もう一度云うよ、最期まで隣に居て」
太宰は俺の顔を両手で包み込んだ。まっすぐな視線で射抜かれる。これまでの記憶が、一気に蘇ってくる。15歳の出逢い。双黒と呼ばれていた時のこと。苦しい首領としての生活で、太宰に助けられたこと。今も必死で助けようとしてくれていること。それと、孤独な太宰の、少し寂しげな背中。それは自分の姿と重なった。
「……独り同士で隣に居れば、寂しくないよな。寂しがり屋同士、最期まで付き合ってやるよ。隣に居るために、手前を首領にしてやる」
「ふふ、そうこなくっちゃ」
太宰の顔が近付いてきたので目を瞑り、触れるだけの口付けをした。
目をあけて見えた世界は、確かに色付いていた。